
娘が犬の耳を引っ張った瞬間、時間が止まった気がした。
あれは確か、春先の午後だったと思う。リビングの窓から差し込む光が床に四角い影を作っていて、その中でゴールデンレトリバーのマロンが昼寝をしていた。娘はまだ2歳半。よちよち歩きを卒業したばかりで、家の中を探検するのが日課になっていた頃だ。マロンの耳がふわふわして気になったんだろう、小さな手でぎゅっと掴んでしまった。私は慌てて止めようとしたんだけど、マロンの方が早かった。ゆっくりと顔を上げて、娘の顔をぺろりと舐めたんだ。娘は「わあっ」って声を上げて、そのまま犬の背中に抱きついた。
犬って不思議だよね。人間の子供が何も分かっていないって、ちゃんと理解してる。
マロンを飼い始めたのは、娘が生まれる前だった。夫婦二人の生活に何か温かいものが欲しくて、ペットショップを何軒も回った。最初は小型犬を考えていたんだけど、マロンと目が合った瞬間に決めてしまった。生後3ヶ月の子犬で、まだ足がおぼつかなくて、歩くたびにこけそうになっていた。「この子、将来大きくなるよ」って店員さんに言われたけど、もう心は決まっていた。
娘が生まれてからは正直、大変だった。夜泣きに授乳に、自分の睡眠時間なんてほとんどなくて、マロンの散歩に行くのも一苦労。朝の5時に犬が吠えて、やっと寝かしつけた娘が起きてしまったときは、さすがに泣きそうになった。でもマロンは文句ひとつ言わずに、私たちの生活リズムに合わせてくれた。
そういえば、この前スーパーで会ったママ友に「犬がいて大変じゃない?」って聞かれたんだけど。
大変かって言われたら、そりゃ大変だよ。毛は抜けるし、散歩は毎日必要だし、病院代もかかる。でも娘がマロンの水入れを一生懸命運ぼうとしている姿を見ると、ああ、これでよかったんだって思える。水はこぼれるし、床はびしょびしょになるし、結局私が拭くことになるんだけど。娘は真剣な顔で「マロン、おみず」って言いながら、自分の背丈ほどもある犬の世話をしようとする。マロンはそんな娘の横に座って、尻尾を振りながら待っている。
3歳になった今、娘は自分なりにマロンの気持ちを読み取ろうとしている。「マロン、さみしい?」「マロン、おなかすいた?」って、しょっちゅう話しかけてる。犬が返事をするわけないのに、娘は真剣に耳を傾けている。で、勝手に「うん、って言ってる!」って解釈してる。
夏の夕方、二人が庭で遊んでいる光景を見るのが好きだ。蝉の声が響く中、娘はホースで水を撒いて、マロンはそれを追いかけて走り回る。娘の笑い声と犬の吠え声が混ざって、なんとも言えない空気が流れる。芝生の匂いと、濡れた犬の匂いと、夕飯の支度を始めた隣の家から漂ってくる醤油の匂い。あの時間帯の空気感は、多分一生忘れないと思う。
最近、娘は絵本を読んでいるとマロンを呼ぶようになった。「マロン、こっちおいで。えほんよむよ」って。犬が絵本を理解するわけないんだけど、マロンは娘の隣にちゃんと座る。娘は真剣な顔で、たどたどしい言葉で物語を読む。途中で飽きて全然違う話を始めることもあるけど、マロンは最後まで聞いている。というか、多分寝てる。でも娘は気にしていない。
ペットを飼うって、責任が伴うとかよく言われる。
それは確かにそうなんだけど、娘を見ていると、もっと違う何かを学んでいる気がする。言葉が通じない相手とどうコミュニケーションを取るか。相手の気持ちをどう想像するか。自分より大きな存在を、どう思いやるか。教科書には載っていないことを、毎日少しずつ吸収している。
この前、マロンが体調を崩して動物病院に連れて行ったとき、娘も一緒についてきた。待合室で不安そうにしている娘に、「マロン、元気になるよ」って言ったら、娘は小さな声で「マロン、がんばって」って呟いた。診察が終わってマロンが出てきたとき、娘は泣きながら抱きついた。まだ3歳なのに、あんなに心配できるんだって、ちょっと驚いた。
ペットがいる生活は、予測不可能なことの連続だ。計画通りにいかないし、思い通りにもならない。でもそれがいいのかもしれない。娘は完璧じゃない世界で、完璧じゃない相手と、毎日を過ごしている。
マロンはもう7歳になった。人間で言えば中年。娘はこれからもっと成長していく。二人の関係がこれからどう変わっていくのか、私にも分からない。ただ、今日も娘はマロンの隣で眠っている。小さな手が、犬の毛並みに埋もれている。その光景を見ながら、明日の散歩のことを考えている。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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