
うちの娘が犬の耳をぎゅっと掴んだ瞬間、私は心臓が止まりそうになった。
あれは確か、娘が二歳になったばかりの初夏だったと思う。リビングの窓から差し込む午後の光が床に長方形を描いていて、その中で柴犬のマロが昼寝をしていた。娘はまだ「やさしく」という概念がよくわかっていなくて、興味のあるものには全力で手を伸ばす。私が「だめ」と言う前に、小さな手がマロの耳をぐいっと引っ張った。マロは目を開けて、じっと娘を見た。
そこで何が起きたかというと、何も起きなかった。マロはため息をつくように鼻から息を出して、また目を閉じた。娘の手はまだ耳を掴んだまま。私は固まって二人を見ていたんだけど、マロはゆっくりと頭の位置を変えて、娘の手から自然に耳を抜いた。それだけ。怒りもしないし、逃げもしない。ただ、距離を調整した。
子供とペットの関係って、教科書には載ってない文法で成り立ってる気がする。
娘は最初、マロを「動くぬいぐるみ」くらいにしか思ってなかったと思う。お腹に顔をうずめたり、背中に乗ろうとしたり、しっぽを踏んだり。私は毎日ヒヤヒヤしながら見守っていた。でもマロは驚くほど辛抱強かった。唸ることも、歯を見せることもなく、嫌なときはそっとその場を離れる。それだけ。娘はマロが離れていくのを見て、最初はきょとんとしていた。「なんで行っちゃうの?」という顔。でも何度か繰り返すうちに、娘の中で何かが変わっていった。マロの耳を触るときの手つきが、少しずつ柔らかくなっていったんだよね。
三歳になる頃には、娘はマロの「嫌だ」のサインを読み取れるようになっていた。耳が後ろに倒れる。目を細める。体がわずかに硬くなる。そういう微細な変化を、娘は言葉を介さずに理解していった。私が何度「優しくね」と言うよりも、マロの反応が娘に教えてくれた。触られて嬉しいときのマロは尻尾を振る。撫でてほしいときは自分から頭を押し付けてくる。娘はそれを全身で学んでいった。
ところで全然関係ないんだけど、私が子供の頃に飼ってたハムスターは、私が触ろうとすると必ず噛んできた。あれは完全に私の触り方が悪かったんだと、今ならわかる。上から鷲掴みにしてたもん。そりゃ怖いよね。
娘が四歳になった夏の夕方、二人が庭で遊んでいるのを台所の窓から見ていたときのこと。娘はマロの横に座って、何かをずっと話しかけていた。マロは娘の膝に顎を乗せて、目を細めていた。風が二人の間を通り抜けて、マロの毛と娘の髪を同じように揺らした。娘が話すたびに、マロの耳がぴくぴく動く。会話が成立しているかどうかなんて、もうどうでもいい気がした。そこにあるのは、言葉の有無を超えた何かだった。
娘はマロを通して、自分以外の存在にも感情があることを知った。触り方ひとつで相手が嬉しくなったり、嫌がったりすることを知った。自分の行動が相手に影響を与えることを、体で理解していった。これって、人間関係の基礎みたいなものじゃないかと思う。保育園で友達を叩いてしまったとき、娘は「痛かったかな」とぽつりと言った。それはマロが教えてくれたことだった。
最近、娘は小学一年生になった。朝の支度をしながら、マロの水を替えるのが娘の日課になっている。ボウルを洗って、新しい水を入れて、マロの頭を撫でる。マロも娘が学校に行く前には必ず玄関まで見送りに来る。二人の間には、もう何年も積み重ねてきた信頼がある。それは言葉で説明できるものじゃなくて、毎日の小さなやりとりの集積なんだよね。
ペットを飼うって、世話が大変だとか、お金がかかるとか、そういう現実的な話はもちろんある。でも子供にとっては、それ以上の何かを与えてくれる存在だと思う。命の温かさ、他者への思いやり、責任感。そういうものを、説教じみた言葉じゃなくて、日常の中で自然に教えてくれる。
夕方、娘とマロが並んでソファで昼寝をしている姿を見ると、ああこれでよかったんだなと思う。完璧な育児なんてできないけど、少なくともこの子には、言葉を超えて通じ合える相手がいる。それだけで十分な気がする…なんて、ちょっと柄にもないこと考えちゃったけど。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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