
娘が犬の耳を引っ張った瞬間、私は息を止めた。
あれは確か、娘が2歳半くらいの頃だったと思う。我が家に柴犬のハルが来てから半年ほど経った夏の午後で、リビングの窓から入ってくる西日が妙に眩しかった。娘はまだ「やさしく」という言葉の意味を体で理解していなくて、ぬいぐるみを触るのと同じ力加減でハルの耳をぎゅっと掴んでしまったんだ。私は慌てて止めようとしたけれど、ハルの方が早かった。彼は小さく「クゥン」と鳴いて、娘の手からそっと顔を離した。怒るでもなく、逃げるでもなく。ただ静かに距離を取っただけ。
その時の娘の顔を今でも覚えている。
きょとんとして、それから何かに気づいたような表情。自分がしたことで誰かが嫌な思いをしたんだって、言葉じゃなくて感覚で理解した瞬間だったんだろうな。それから娘はゆっくりハルに近づいて、今度はそっと頭を撫でた。ハルは尻尾を振って、娘の手を舐めた。私は何も言わなかった。言葉で説明するよりも、あの一連のやりとりの方がずっと雄弁だったから。
子供とペットの関係って、教育書に書いてあるような綺麗事じゃないんだよね。もちろん「命の大切さを学ぶ」とか「責任感が育つ」とか、そういう側面もあるんだろうけど、実際に毎日一緒に暮らしていると、もっと泥臭くて、もっと予測不可能で、もっと生々しい何かがある。
例えば、娘が幼稚園で嫌なことがあった日。帰ってきてからずっと不機嫌で、夕飯も食べずに部屋に閉じこもっていた。私が声をかけても「ほっといて」の一点張り。どうしたものかと思っていたら、ハルが娘の部屋のドアの前にちょこんと座っていた。しばらくして、ドアが少しだけ開いて、ハルがすっと中に入っていく。それから30分くらいして娘が出てきた時には、さっきまでの険しい顔はどこかに消えていた。「お腹すいた」って、普通に言うんだもん。
何を話したのか、いや、話してないんだろうけど。ハルが何をしたのかは分からない。でも、あの時間が娘には必要だったんだと思う。親でも友達でもない、ただそばにいてくれる存在。
ちなみに私、学生時代にハムスターを飼っていたことがあるんだけど、3日で脱走されたことがある。ケージの掃除をしている隙に、するりと逃げられて。部屋中を探し回って、結局見つけたのは本棚の裏。ものすごく狭い隙間に入り込んでいて、取り出すのに一苦労した。あの時は本当に焦ったな…。今思えば、生き物と暮らすって、そういう予想外の連続なんだよね。
娘が小学生になった今、朝のハルの散歩は娘の担当になっている。最初は「やる」って張り切っていたけど、冬の寒い朝なんかは「今日はパパが行って」とか言い出す。それでも週に4日くらいは自分で行っているから、まあ上出来だと思う。完璧じゃなくていい。むしろ、たまにサボりたくなる気持ちを抱えながらも、それでもハルのために外に出る。その葛藤こそが大事なんじゃないかって、最近は思うようになった。
先日、娘が学校の作文で「大切なもの」というテーマで書いた文章を見せてもらった。てっきりゲームのことでも書くのかと思っていたら、ハルのことを書いていた。「ハルはしゃべれないけど、私の気持ちを分かってくれる」って。読みながら、ああ、この子はちゃんと感じ取っているんだなと思った。言葉にならないコミュニケーションの豊かさを。
ペットと子供が一緒に過ごす時間には、大人が介入できない領域がある。それは決して排除されているわけじゃなくて、ただ私たちには見えない、触れられない何かがそこにあるだけ。娘とハルが並んでソファに座っている背中を見ていると、そう思う。二つの小さな命が、それぞれのペースで、それぞれの言葉で、何かを交わしている。
今日も夕方、娘は宿題そっちのけでハルと遊んでいる。「宿題は?」って聞いたら「あとで」って返ってきた。まあ、いいか。その「あとで」の前に、もっと大切な時間があるのかもしれないし。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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