
うちの犬が娘の頬を舐めた瞬間、私は台所で皿を洗う手を止めた。
あれは確か春先の、まだ肌寒い夕方だったと思う。保育園から帰ってきた娘が玄関で靴を脱ぐやいなや、ゴールデンレトリバーのマロが飛びついていって。最初は「危ない!」って思ったんだけど、娘のほうが先に「マロー!」って抱きついてたから、私の心配は完全に空振りだった。子供って本当に、大人が思ってる以上に柔軟なんだよね。
ペットと暮らし始めたのは娘が3歳のときで、正直なところ私自身が動物との生活に慣れてなくて。最初の数ヶ月なんて、犬の毛が落ちるたびに掃除機かけて、娘がマロに触ったら即座に手を洗わせて、神経質になりすぎてたかもしれない。今思えば笑っちゃうくらい過保護だったけど、当時は真剣だったんだよ。
娘が幼稚園で友達とうまく話せないって先生から聞いたのは、その年の秋だった。人見知りが激しくて、お遊戯の時間もいつも端っこにいるらしい。家では普通におしゃべりなのに、外に出ると途端に固まっちゃう。どうしたものかと夫婦で悩んでたんだけど、ある日気づいたんだ。娘、マロには饒舌なんだよね。
「今日ね、お弁当のブロッコリー残しちゃったの」「先生がね、お歌うまいねって言ってくれた」「でもね、ユウちゃんが私の絵を見て笑ったの」
リビングのソファに座って、マロの首に顔をうずめながら、娘は一日の出来事を全部話してた。マロは尻尾を振りながら、時々「ワン」って相槌を打つ。完璧な聞き役だった。犬って判断しないんだよね。娘の話を「それは違うよ」とか「我慢しなさい」とか言わない。ただそこにいて、温かくて、娘の声を受け止めてくれる。
そういえば私が子供の頃、近所に「ペットハウス・ミルキー」っていう小さなペットショップがあって。学校帰りによく覗いてたんだけど、結局うちは集合住宅で飼えなかったんだよね。だから娘には絶対にペットと暮らす経験をさせたいって思ってた。自分の果たせなかった夢を押し付けてるだけかもしれないけど…だけど。
娘が変わり始めたのは、マロの散歩を一緒にするようになってからだ。
最初は私がリードを持って、娘は横を歩くだけだったんだけど、ある日「私が持つ!」って言い出して。正直、5歳の子供に大型犬のリードを任せるのは怖かった。でも娘の目が真剣で、断れなかった。公園までの10分間、娘は小さな手でしっかりリードを握りしめて、マロが急に走り出さないように「待って、マロ」って声をかけながら歩いてた。
公園では他の犬を散歩させてる人たちがいて、自然と「こんにちは」って挨拶が生まれる。「かわいいワンちゃんですね」「何歳ですか?」そんな会話のきっかけをマロが作ってくれた。娘は最初モジモジしてたけど、「3歳です」「マロっていいます」って小さな声で答えられるようになって。犬を通じてなら、娘は人と話せるんだ。
梅雨の時期、マロが体調を崩したことがあった。食欲がなくて、いつもの元気がない。獣医さんに診てもらったら、ちょっとした胃腸炎だったんだけど、娘はすごく心配して。自分のご飯も食べずに、マロの横にずっと座ってた。「マロ、大丈夫だよ」「すぐ元気になるよ」って、頭を撫でながら何度も何度も声をかけて。
その姿を見て、ああ、これが優しさなんだって思った。誰かに教えられたわけじゃない、マニュアルがあるわけでもない。ただ大切な存在が苦しんでるから、そばにいたい。それだけ。
今、娘は小学2年生になった。相変わらず人見知りは少しあるけど、友達もできて、放課後に遊びに行くようになった。「マロがね」って話をよく友達にするらしい。クラスの子が何人か、うちにマロを見に来たこともある。ペットって、子供同士をつなぐ不思議な力があるんだよね。
夜、娘が宿題をしてる横で、マロは静かに寝そべってる。時々娘の足元に顎を乗せて、眠そうな目でこっちを見てる。その光景が、もう当たり前になりすぎて、ペットのいない生活なんて想像できない。
完璧な子育てなんてないし、ペットがいれば全部うまくいくわけでもない。でも少なくとも、うちの娘にとってマロは、人との距離の測り方を教えてくれた最初の先生だったと思う。言葉じゃなくて、温度で伝わるものがあるってこと。
さっき、娘が「マロと一緒に寝る!」って言い出して、また夫と揉めてる。衛生面がどうとか、ベッドが狭いとか。まあ、いつもの光景なんだけどね。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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