
会社の最寄り駅から自宅まで、徒歩で十二分ほどの道のりがある。夕方六時を過ぎると、商店街のアーケードには薄暗い照明が灯り始め、八百屋の店先に並んだ白菜や大根が、なんとなく心細げに見えてくる。秋も深まったこの時期、コートの襟を立てて歩く人の姿が目立つようになった。私もその一人だ。
一人暮らしを始めて三年が経つ。最初の一年は、仕事から帰ってもただ静かなだけの部屋に戸惑った。誰もいない空間に「ただいま」と言うのは、思っていた以上に虚しいものだった。冷蔵庫を開けて、適当に何かを食べて、テレビをつけて、気づけば眠っている。そんな日々が続いていた。
ペットを飼おうと思ったのは、ふとしたきっかけだった。友人が「うちの猫が子どもを産んだから、一匹どう?」と軽い調子で言ってきたのだ。正直なところ、最初は迷った。責任を持てるだろうか、世話をちゃんと続けられるだろうか。でも、友人の家で小さな茶トラの子猫と目が合ったとき、何か決定的なものが動いた気がした。
それから二年。今ではその猫、名前を「コハク」というのだが、私の生活の中心にいる。玄関の鍵を開けると、廊下の奥からトテトテと駆け寄ってくる足音が聞こえる。まだ小さかった頃は、勢い余って滑って壁にぶつかることもあった。あの時の「ドンッ」という音と、その後のきょとんとした顔は、今でも思い出すと微笑ましい。
コハクは私が帰宅すると、必ず玄関まで迎えに来る。そして、足元にすり寄ってきて、低い声で「ニャーオ」と鳴く。これが彼なりの「おかえり」なのだろう。靴を脱いで、コートを掛けて、リビングに入ると、コハクは私の後をついてくる。キッチンに立てば足元で座り込み、ソファに座れば膝の上に乗ってくる。
ある冬の夜、仕事で遅くなって帰宅したとき、部屋の暖房をつけ忘れていたことに気づいた。凍えるような寒さの中、コハクは毛布にくるまって丸くなっていた。私が近づくと、眠そうな目でこちらを見て、小さく伸びをした。その仕草がなんとも愛おしくて、急いで暖房をつけて、一緒に毛布にくるまった。コハクの体温が、じんわりと伝わってくる。猫の体温は人間よりも高いと聞いたことがあるが、本当にそうだと実感した瞬間だった。
一人暮らしの楽しみは、自分のペースで生活できることだと思っていた。確かにそれは間違いではない。でも、ペットと暮らすようになって、その意味が少し変わった気がする。自分だけのペースではなく、誰かと一緒のペースで生きること。それもまた、悪くない。いや、むしろ心地よいものだと知った。
週末の朝、いつもより遅く目が覚めると、コハクが枕元で丸くなって眠っていることがある。窓から差し込む柔らかな光が、彼の毛並みを照らしている。ゆっくりと呼吸をしているその姿を見ていると、不思議と心が落ち着く。子どもの頃、実家で飼っていた犬のことを思い出す。あの犬も、よく私の部屋で一緒に昼寝をしていた。
最近、近所に「カフェ・ルナリア」という小さな喫茶店ができた。店内にはペット同伴OKのスペースがあり、休日にコハクを連れて行くこともある。キャリーバッグの中から顔を出すコハクを見て、店員さんが「可愛いですね」と声をかけてくれる。そんなやりとりも、一人暮らしの中では貴重な時間だ。
ペットとの生活は、決して楽なことばかりではない。病気をしたときは心配で眠れなかったし、部屋の掃除も以前より頻繁にするようになった。でも、それ以上に得られるものがある。それは「帰る場所がある」という実感だ。誰かが待っていてくれる場所。それがどれほど心強いものか、コハクと暮らすようになって初めて分かった。
夜、仕事を終えて駅に降り立つとき、以前とは違う気持ちがある。早く帰りたい、という素直な思い。それは義務感ではなく、温かな期待感だ。玄関の向こうで、きっとコハクが待っている。その確信が、疲れた足を前に進ませてくれる。
ペットは、言葉を話さない。でも、その存在そのものが、多くのことを教えてくれる。帰る場所の意味、誰かと共にいることの豊かさ、そして日常の中にある小さな幸せ。一人暮らしの部屋は、もう静かなだけの空間ではない。コハクという小さな命と共に、確かに息づいている場所なのだ。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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