
三月の終わり、窓から差し込む夕陽が少しずつオレンジ色に染まり始めた頃、いつもなら私の足元にすり寄ってくるはずの愛猫が、リビングの隅でじっと丸くなっていた。呼んでも反応が鈍い。その様子に、胸の奥がざわりと波立つ。ペットとの生活は、こういう小さな変化に敏感にならざるを得ない日々でもある。
最初は「疲れているだけかもしれない」と思った。けれど、いつもの夕食の時間になっても顔を上げない。鼻先に近づけたフードの匂いにも、まったく興味を示さなかった。その瞬間、ああこれは普通じゃない、と直感が告げる。子どもの頃、実家で飼っていた犬が体調を崩したときも、こんなふうに静かに隅へ引きこもっていたことを思い出す。動物は、痛みや不調を隠す生き物だ。だからこそ、飼い主が気づいてあげなければならない。
私はすぐにスマートフォンを手に取り、近隣のペット病院を検索した。いくつか候補が出てきたが、夜間対応をしているところは限られている。幸い、車で十五分ほどの場所に「ハーモニー動物クリニック」という評判の良い病院があることを知り、すぐに電話をかけた。受付の女性は落ち着いた声で、「今から来ていただいて大丈夫ですよ」と言ってくれた。その声に少しだけ安堵する。
猫をキャリーケースに入れようとしたとき、いつもなら嫌がって暴れるのに、今日は抵抗すらしなかった。その無気力さが、逆に不安を増幅させる。急いで車に乗り込み、エンジンをかけた。助手席に置いたキャリーの中から、小さく弱々しい鳴き声が聞こえる。信号待ちのたびに、私は振り返ってその姿を確認した。
病院に着くと、待合室には数組の飼い主とペットがいた。犬を抱いた老夫婦、鳥かごを持った若い男性。それぞれが、それぞれの大切な命を気遣っている。受付で名前を告げると、すぐに診察室へ通された。獣医師は白衣を着た穏やかな表情の女性で、丁寧にこちらの話を聞いてくれた。触診、体温測定、そして血液検査。その一つ一つの動作が、どこか儀式めいて感じられる。
待っている間、診察室の壁に貼られたポスターが目に入った。「ペット保険のご案内」と書かれたそれには、いくつかのプランが紹介されている。そういえば、加入を検討しながらも先延ばしにしていたことを思い出した。今回のような急な受診では、検査費用もばかにならない。もしものときに備えておくことの大切さを、今さらながら実感する。
検査結果が出るまでの間、私は待合室で待機していた。窓の外はすっかり暗くなり、街灯がぽつぽつと灯り始めている。受付の棚には、ペット用のおやつやおもちゃが並んでいる。その中に、猫用の羽根つきおもちゃがあった。元気になったら、あれを買ってあげようと心の中で決める。ふと、自動販売機でコーヒーを買おうとボタンを押したら、思いがけず紅茶が出てきた。選択ミスだ。でも、温かい飲み物が手に入っただけでもありがたいと思い直し、カップを両手で包む。その温もりが、ほんの少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
やがて名前を呼ばれ、再び診察室へ。獣医師は「軽度の胃腸炎のようです」と説明してくれた。幸い、重篤な病気ではなかったが、数日間は投薬と食事管理が必要だという。処方された薬と、専用の療法食を受け取り、注意事項を細かくメモした。帰り際、受付で会計を済ませながら、改めてペット保険の資料をもらった。次はきちんと準備しておこうと思う。
帰宅後、猫をそっとケージから出してやると、少しだけ目に力が戻っているように見えた。薬を飲ませるのは一苦労だったが、何とか成功する。その夜は、いつもより頻繁に様子を見に行った。夜中に目を覚ますたびに、呼吸を確認し、体温を手のひらで感じ取る。そのたびに、ペットとの生活がどれほど自分の日常に根付いているかを思い知らされる。
翌朝、カーテンを開けると柔らかな朝日が部屋を満たした。猫は少しだけ水を飲み、ゆっくりと身体を伸ばしていた。まだ完全には回復していないが、昨夜よりは確実に良くなっている。私はそっと頭を撫でてやり、静かに見守ることにした。
ペットが病気になったとき、飼い主にできることは限られている。けれど、その限られた中で最善を尽くすこと、早めに気づいてあげること、そして信頼できるペット病院を知っておくことが、何よりも大切なのだと痛感した。日常の小さな変化に目を向け、いざというときに慌てず動ける準備をしておくこと。それが、共に生きる命への責任なのだろう。
窓辺で丸くなる猫の背中を眺めながら、私は改めてその温もりの尊さを噛み締めていた。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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