
九月に入っても、まだ日中の空気は夏の名残をまとっている。夕方になると、ようやく風が少しだけやわらかくなって、リビングのカーテンがゆっくりとなびく。そんな時間帯に、うちの猫のムギは決まってソファの背もたれに乗り、窓の外をじっと眺めている。耳だけがぴくぴくと動いて、何かを追っているのか、ただ眠いのか、本人にしかわからない。
ペットとの生活を始めて、もう四年が経つ。最初は「猫を飼うなんて大変そう」と言っていた夫が、今では仕事から帰るなり「ムギは?」と聞く。子どもたちも同じで、小学二年生の長女は毎朝ムギの額にキスをしてから登校する。次男はまだ四歳で、ムギのしっぽをそっと握ろうとしては、するりと逃げられ、それでも懲りずに追いかけている。その繰り返しが、うちの朝の風景だ。
家族という言葉の意味を、ペットが教えてくれた気がする。大げさに聞こえるかもしれないけれど、ムギが来てから、家の中の空気が変わった。誰かが帰ってきたとき、ムギが玄関まで来るわけではない。それどころか、ほぼ動かない。それでも、リビングに入るとそこにいる。それだけで、なんとなく「ただいま」が完成する。
先日、近所の雑貨店「ソラネコ・ストア」で買ってきたウッド調のキャットタワーを窓際に置いたら、ムギはまず一時間ほど遠くから眺めていた。近づいて、においを嗅いで、また離れて。ようやく乗ったと思ったら、その日の夜には完全に自分のものにしていた。猫というのはそういう生き物で、急かしても意味がない。人間の側が待つしかない。それを子どもたちに話したら、長女が「ムギって哲学者みたい」と言った。四歳の次男は「てつがくしゃって何?」と聞いた。
五感で感じるペットとの生活は、言葉にするのが難しい。朝、ムギが喉をゴロゴロと鳴らしながら布団の上に乗ってくる感触。毛並みのやわらかさ、体のあたたかさ、鼻先のひんやりとした感触。日当たりのいい場所に移動したムギのそばに座ると、毛に日光が溜まっていて、ほんのり温かい。これは実際に触れないとわからない感覚で、写真にも動画にも映らない。
思えば、子どもの頃、実家で飼っていた柴犬のコロのことを今でも時々思い出す。散歩から帰ると必ず玄関で待っていて、タオルで足を拭かれるのを嫌がりながらも、じっと我慢していた。あの頃の記憶があるから、今もペットとの生活に迷いがない。むしろ、自分の子どもたちにも同じような記憶を作ってあげたいと思っている。
仲良しな家族の形は、人によって違う。でも、うちの場合はムギがいることで、家族の会話が増えた。「今日ムギがこんなことしてた」「ムギがまたそこで寝てる」。たったそれだけの話題が、夕食の時間をゆるやかにつなぐ。夫がスマホを置いて話を聞くのも、ムギの話題のときだけだったりする。これは軽くツッコんでおきたいところだが、まあ、ムギに感謝するとしよう。
ペットとの生活は、決して手間がないわけではない。トイレの掃除、食事の管理、定期的な通院。それでも、夕暮れどきにムギが窓辺でうとうとしている横で、家族全員がそれぞれのことをしながらも同じ空間にいる時間は、何にも替えられない。カーテンが風に揺れて、次男がクレヨンで何かを描いていて、長女が本を読んでいて、夫がコーヒーを飲んでいる。そしてムギは、ただそこにいる。
この何気ない時間が、きっと何年後かに「あの頃はよかったな」と思い出す記憶になる。ペットがいるから、この家はあたたかい。家族みんなで仲良しでいられるのは、もしかしたらムギのおかげかもしれない。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

コメント