ペットと子供が育てあう日々 ── ふれあいの中で芽生えるもの

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夏の終わりが近づく八月の夕暮れ、窓から差し込む橙色の光が畳の上にゆっくりと伸びていた。その光の端に、うちの娘・七歳のはなが、トイプードルのムギとならんで転がっている。どちらが先に眠ったのかわからないまま、ふたりは静かに寝息を立てていた。

ペットとの生活を始めたのは、はなが四歳の誕生日を迎えたばかりの春のことだった。夫と私はずいぶん迷った。世話ができるか、アレルギーは大丈夫か、住まいの環境は整っているか。そんな問いをぐるぐると繰り返しながら、それでも「子供がいる家庭にこそ、動物との暮らしが必要かもしれない」という直感を、最後には信じることにした。

子どもが小学校を卒業するまでにペットと暮らした経験を持つ家庭を対象にした調査では、「子どもの感受性が豊かになった」と感じた保護者が約半数にのぼった
という。我が家でも、それは数字ではなく、毎日の小さな場面として現れてくる。

ムギが来た最初の夜、はなは布団の中で「ムギ、さびしくないかな」とつぶやいた。四歳の子供が、自分より小さな命の気持ちを想像しようとしていた。その言葉を聞いたとき、私はなにも言えなかった。ただ、「そうだね」とだけ返して、はなの頭をそっとなでた。

ふれあいというのは、ただ触れることではないと、この三年で少しずつわかってきた。ムギがはなの膝に乗ってうとうとするとき、はなは息を止めるようにして動かなくなる。起こさないように、という本能的な優しさ。その静止の時間の中で、子供の何かが確実に育っている。責任感とか共感力とか、そういう言葉に収めてしまうのが少しもったいないくらいの、もっと柔らかいもの。

去年の秋、はなが初めてムギのごはんを一人で準備した日のことを覚えている。計量カップで丁寧にフードを量り、水を入れて、「できたよ」と誇らしそうに呼びに来た。ところが、器を置いた瞬間に足が滑って、フードが半分ほど床に散らばった。はなは一瞬固まって、それから「…ムギごめん」と言いながら一粒ずつ拾い始めた。私は笑いをこらえながら隣でそっと手伝った──あの几帳面な謝り方は、今でも思い出すとなんとも言えない気持ちになる。

ペットを「家族の一員(=主役)」として描く視点が、いま多くの家庭に広がっている
。我が家でもムギはとっくに家族の中心にいて、はなの子供の成長の記録には必ずムギが写り込んでいる。誕生日の写真も、運動会の朝の写真も、なぜかムギが一緒にいる。

インテリアブランド「ノルテハウス」のカタログで見た、木製のペット用ステップがリビングの隅に置いてある。はなが「ムギが自分でソファに上れるように」と選んだものだ。値段を見て少し迷ったけれど、娘がムギのために何かを選ぶという行為そのものに、私はお金を払ったのかもしれない。

朝、ムギの毛並みをブラッシングするのははなの仕事になっている。やわらかい獣毛のブラシが毛をすべる音、ムギが目を細めて満足そうにする表情、朝の光の中に漂うほのかな草のような体の香り。そういう感覚の積み重ねが、はなの「ふれあい」の記憶になっていく。言葉ではなく、体で覚えていくもの。

子供の成長とペットの存在が交差するこの時間は、思っていたよりずっと静かで、思っていたよりずっと深い。はなはムギを通じて、命というものの重さを、おそらくまだ半分も理解していない。でもそれでいいと思っている。残りの半分は、これからの日々が少しずつ教えてくれるはずだから。

夕暮れの畳の上で、ムギがはなの腕にあごをのせたまま眠っている。橙色の光がふたりの輪郭をやわらかく包んでいる。この景色を、私はきっと何年経っても忘れない。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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