ペットと子供が育む、やさしい時間のこと

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九月の朝は、まだ少しだけ夏の名残りを引きずっている。窓から差し込む光がフローリングに細長い影を落として、その上に丸まっているのがうちの猫、ムギだ。ラグドールという種類で、毛がふわりと長く、どこかぼんやりとした顔をしている。起きているのか眠っているのか、いつも判断がつかない。

娘が三歳になった春、ムギがやってきた。あの頃の娘は何にでも「なんで?」と聞く時期で、ムギにも例外なく「なんでニャーってゆうの?」と毎朝問いかけていた。ムギはそのたびに、ゆっくりと目を細めるだけだった。答えになっていないが、娘はそれで満足していたらしい。

ペットとの生活というのは、想像していたよりずっと静かで、そしてずっと豊かだと思う。

娘が泣いていると、ムギはそっと近づいてくる。鼻先をつんと娘の頬に押し当てて、そのまましばらく動かない。娘はたいてい、泣くのを忘れる。言葉ではないふれあいが、子供の心にどれほど深く届くのか、親の自分にはうまく説明できない。ただ、あの光景を見るたびに、「ああ、この子はここに育ててもらっているんだ」と感じてしまう。

幼少期にペットがいると、子どもたちの思いやりの心を育て、認知機能を発達させることが研究により証明されている。
とはいうものの、そんな難しい話よりも、娘がムギの背中に顔をうずめて「あったかい」とつぶやく瞬間のほうが、親にとってはずっと説得力がある。

子供とペットのふれあいには、どこか時間がゆっくり流れる感覚がある。

先日、娘が「ムギにごはんあげる」と言い張って、自分でフードをスプーンですくおうとした。が、スプーンが小さすぎてフードが全部こぼれ、ムギはそれを床で食べるという、なかなかカオスな朝食タイムになった。娘は「できた!」と誇らしげで、ムギも文句ひとつ言わず床をぺろぺろしていた。あの二人のやりとりには、なんというか、大人にはもう出せない無邪気さがある。

ペットを飼うことは、子どもにとって責任感を育むよい機会にもなる。ペットの世話や日常的なルーティーンを通じて、子どもは責任を持つことや予定を守ることの重要性を学ぶことができる。
床でごはんを食べるムギを見ながら、それでも娘が「明日もあげる!」と言ったとき、その言葉の中に確かに責任の芽みたいなものを感じた。

わたし自身が子どもの頃、実家には雑種の犬がいた。名前はコタロウ。毎朝、わたしが学校へ行く前に必ず玄関まで見送りに来て、帰ってくると玄関の前で待っていた。あの記憶は今でも、胸の奥のやわらかいところにある。ペットとの生活が子供に残すものは、知識でも技術でもなく、「誰かと一緒にいることのあたたかさ」なのかもしれない。

動物とのふれあいは、リラックスや気持ちの安定を促進するだけでなく、他者との関係を築き、学びの機会を増やすための非常に重要な体験だ。
それはなにも特別な場所でなくても起きる。キッチンの床でも、リビングの日だまりでも。

最近、娘がお気に入りのブランケットをムギの上にそっとかけてあげているのを見た。インテリアショップ「ハコノワ」で買った薄いリネンのブランケットで、娘のものなのに、気づいたらムギの定位置に置かれるようになっていた。娘に「なんでムギにあげたの?」と聞くと、「さむそうだったから」と言った。九月の朝、窓の外ではまだ蝉が鳴いていた。寒くはないはずなのだが、それでもその答えは正しいと思った。

ペットは常に飼い主に愛情を注いでくれる存在であり、子どもはそれを受け取ることで安心感や絆を覚えて、思いやりの感情が成長する。
娘はきっと、ムギからそれを受け取って、今度はムギへ返しているのだ。

ペットとの生活は、子供にとっての最初の「社会」なのかもしれない。言葉が通じない相手を思いやること、自分より小さな存在の変化に気づくこと、そして何かを一緒に分け合うこと。そのすべてが、日々のふれあいの中に静かに積み重なっていく。

今朝もムギは窓辺で目を細めている。娘はその隣に座って、絵本を声に出して読んでいる。ムギに聞かせているらしい。ムギが理解しているかどうかは、誰にもわからない。でも、ムギはどこにも行かない。ただそこにいる。そのことが、どれほど大切なことか。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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