
六月の終わり、夕方五時を少し過ぎたころ。西日がリビングのフローリングに斜めに差し込んで、その光の帯の上にぴたりと体を伸ばして眠っているのが、うちの柴犬・麦太だった。尻尾だけがゆっくりと揺れている。起きているのか、眠っているのか、どちらとも言えないような、あのやわらかな時間。
ペットは今や”癒し”や”かわいらしさ”を超え、家族やパートナーとしての存在感を強めている。
そう言われるようになって久しいけれど、実際に犬と暮らしてみると、その言葉の重さがじんわりと体に染みてくる。うちの場合、麦太が来てから家族の会話が確実に増えた。小学三年生の息子が「麦太がさ、今日ね」と話しかけてくる回数は、以前と比べものにならない。
ペットとの生活は、思っていたより静かで、思っていたより深い。
麦太を迎えたのは二年前の春だった。当時、夫と私は共働きで忙しく、子どもたちとの会話が「宿題は?」「お風呂入った?」くらいになっていた時期がある。そのことに気づいていながら、どうすることもできずにいた。そこへ麦太がやってきた。最初の一週間は正直、大変だった。夜中に鳴く、トイレを失敗する、娘のぬいぐるみをくわえて走り回る。家族全員が疲れ果てて、「本当に飼えるのか」と不安になった夜もあった。
でも、ある朝のことを今でも覚えている。息子が麦太の前にしゃがんで、ドッグフードの粒を一粒ずつ手のひらに乗せて食べさせていた。麦太の小さな舌が息子の手のひらをくすぐるたびに、息子が声を上げて笑う。その笑い声が台所まで聞こえてきて、私はコーヒーを入れる手を止めた。あ、これだ、と思った。
ペットという別の生き物に興味を持ち、一緒に遊んだり世話をしたりすることは、愛情や思いやりを学んだり、責任感や協調性を育んでくれる。
専門家の言葉だが、うちの子どもたちを見ていると、まさにそうだと実感する。娘は最近、自分から麦太のごはんの時間を管理するようになった。「もうすぐ六時だから準備しなきゃ」と言いながらキッチンへ向かう後ろ姿が、少し頼もしく見える。
散歩は家族みんなで行くことが多い。夕暮れ時の住宅街、アスファルトがまだほんのり熱を持っていて、麦太の足音がぱたぱたと小気味よく続く。夫がリードを持ち、息子が隣を走り、娘が「ちょっと待って」と言いながら小走りでついてくる。この光景が、今の私には何より好きだ。インテリアブランド「ハコニワ」のカタログに出てくるような、整ったきれいな家族像ではなく、もっとばたばたして、ちょっとうるさくて、それでいて確かに仲良しな感じ。
ちなみに、散歩中に一度だけ盛大にやらかしたことがある。麦太がいきなり方向転換してリードを引っ張ったとき、私は完全に重心を失ってよろけ、持っていたエコバッグを道路に盛大に投げ飛ばした。中身のペットボトルが坂を転がっていくのを、家族全員で無言で見送った。麦太だけが何事もなかったかのように草のにおいを嗅いでいた。
「ペットは単なる癒しではなく、家族の一員」。こうした価値観の変化が、多くの家庭でペットとの生活を豊かにしている。
確かにそうなのだが、家族の一員というのは、つまり「一緒に笑える存在」ということでもあると思う。麦太がいるおかげで、私たち家族には共通の話題が生まれた。共通の記憶が、少しずつ積み重なっていく。
子どものころ、実家でも犬を飼っていた。名前はクロ。雑種で、庭の隅にいつもいた。あのころは「一緒に遊ぶ」というより「そこにいる」という感じで、正直あまり深く関わっていなかったかもしれない。今になって思うのは、もっと一緒にいればよかった、ということだ。だから麦太とは、できるだけ同じ時間を過ごすようにしている。
夜、麦太がソファの端でうとうとしながら、ふいに顔を上げてこちらを見る。その目が、何かを言いたそうで、でも何も言わない。ただじっと見ている。その視線が、不思議と胸の奥に温かいものを残していく。
ペットとの生活は、家族を仲良しにする。それは間違いない。ただ、もう少し正確に言うなら、ペットが家族の間にある小さな隙間を、そっと埋めてくれる、そういうことなのかもしれない。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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