
十月に入ったばかりの朝、空気がひんやりと変わった。窓から差し込む光はまだ柔らかく、カーテン越しに金色がにじんでいる。そのぼんやりした光の中で、うちの柴犬・むぎが、娘の足元でくるりと丸まって眠っていた。娘はそれに気づかないふりをしながら、そっと毛布の端を引っ張ってむぎにかけてやった。言葉はなかった。でも、その小さな仕草を台所から見ていた私は、なんとも言えない気持ちになった。
ペットとの生活を始めたのは、もう五年前のことになる。
当時、子どもたちはまだ小さく、家の中はいつもどこかバラバラな感じがしていた。夫は仕事で帰りが遅く、私は夕飯の支度をしながら子どもたちをなだめ、気づけば一日が終わっていた。そんなある週末、ペットショップの前を通りかかって、ガラスの向こうで小さな柴犬の子犬と目が合った。なんとなく立ち止まって、なんとなく入って、なんとなく連れて帰ってしまったのだ。「なんとなく」で始まった縁が、今では家族の真ん中に座っている。
ペットを「飼う対象」ではなく「家族の一員」として扱う価値観は、いまや広告の言葉の中にも「うちの子」「相棒」として自然に溶け込んでいる。
それは確かに、私たちの家でも同じだった。むぎが来てから、家族の会話が増えた。「今日むぎがこんなことしてた」「むぎが玄関で待ってた」という話題が、夕食の時間を少しだけ賑やかにした。夫が帰宅するとむぎが尻尾を振って駆け寄る。その姿を見て、子どもたちが笑う。それだけのことなのに、食卓の空気がやわらかくなった。
思い返せば、私が子どもの頃、実家にもネコがいた。「こまち」という名の三毛猫で、いつも縁側で日向ぼっこをしていた。冬の午後、こまちの背中に手を置くと、ほんのり温かくて、日光の匂いがした。あの感触を、大人になってからもずっと覚えていた。ペットがいる暮らしには、そういう「記憶に残る温度」がある。
むぎとの毎日にも、そういう瞬間が積み重なっている。朝の散歩で踏む落ち葉のかさかさとした音。夕暮れどきに公園を歩くと、西日に照らされたむぎの毛が赤みを帯びて輝く。息子がむぎのリードを握る手に力を込めながら「ぼくがちゃんと連れて行く」と言い張る顔。そういうひとつひとつが、家族の記憶になっていく。
ところで、先日ちょっとした出来事があった。むぎの誕生日に、インテリア雑貨ブランド「ハコネスタイル」で見つけた小さな木製フォトフレームにむぎの写真を飾ろうとしたのだが、息子が「むぎは写真より本物の方がいい」と言って、フレームの前にむぎ本人を座らせようとした。むぎは当然じっとしているはずもなく、おやつで釣ろうとした娘の手をぺろりと舐めてどこかへ行ってしまった。フォトフレームだけが、しんと静まり返った棚の上に残された。(家族全員で、しばらく無言だった。)
ペットを「主役」として描くとき、機能訴求より関係性訴求の方が大切になる
、という言葉をどこかで読んだ。まさにそうだと思う。むぎが家族にもたらしてくれたのは、便利さでも効率でもなく、「一緒にいる理由」だった。
「ペットを飼うと心が和む」というのはもはや当たり前の話で、犬や猫と暮らすことで、人の脳とペットの脳の間に生物学的な共鳴が起きているとも言われている。
難しい話は抜きにしても、むぎと目が合う瞬間に何かが通じ合う感覚は、確かにある。言葉のない対話、とでも呼ぶのだろうか。
ペットとの生活は、家族を仲良しにする。それは大げさな話ではなく、毎朝の散歩を誰が担当するかで自然と役割が生まれ、むぎの体調を気にかけることで子どもたちが「ほかの命を想う」ことを覚えていく、という地味で確かな積み重ねの話だ。
十月の朝、むぎはまだ眠っている。娘はそっと隣に座って、スケッチブックを開いた。むぎの寝顔を描き始めたらしい。窓から入る光が、ふたりの上に静かに降り注いでいる。この景色が、今日の記憶になる。そしてきっと、ずっと先まで残っていく。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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