
朝の七時すぎ、台所からバターを焼く香りが漂ってくる。窓の外では蝉がまだ鳴き始める前の、あの静かな夏の朝の空気。そんな時間に、うちの柴犬・むぎはいつも決まって、娘の足元にぴたりと寄り添って座っている。娘がトーストを手に取るたびに、むぎの鼻がひくっと動く。まるで「ちょっと分けてくれないか」と言いたそうな顔で。
ペットとの生活を始めて、もう四年が経つ。
最初は夫が「犬を飼いたい」と言い出したとき、正直なところ私は半信半疑だった。世話は誰がするのか、旅行はどうするのか、子どもたちがちゃんと面倒を見られるのか。そういう現実的な不安が、頭の中をぐるぐると回っていた。でも今となっては、むぎがいない朝の風景なんて、もう想像できない。
むぎが来てから、家族の会話が増えた。これは本当のことだ。夕食の席で「今日むぎがこんなことしてた」という話題が、自然と生まれるようになった。息子は小学三年生のころ、友達との些細なケンカで落ち込んで帰ってきた日があって、そのとき誰よりも先にむぎが玄関で出迎えた。息子はそのままリビングの床に寝転がって、むぎのお腹に顔をうずめていた。その背中を遠くから見ながら、私は何も言わなかった。言わなくていいと思った。
ペットというのは、言葉を持たないぶん、何かを余分に持っているのかもしれない。
夏の散歩は早朝に限る。七月の八時を過ぎると、アスファルトはもう熱を持ち始めるから、むぎの肉球が心配になる。だから私と夫は交互に、六時台に起きて近所の緑道を歩く。「ハナミズキ緑道」と地元では呼ばれているその道は、朝露がまだ草の上に残っていて、踏むたびにひんやりした感触が靴底に伝わってくる。むぎはいつも同じ場所で立ち止まって、同じ方向をじっと嗅ぐ。何があるのかは、人間にはわからない。
ペットとの生活は、こういう「わからないこと」を楽しむ練習でもある。
先日、娘が学校の自由研究で「犬の気持ちを調べる」というテーマを選んだ。図書館で借りてきた本を読み込んで、むぎの仕草をノートに記録して、「しっぽが右に振れるときは嬉しいらしい」とか「耳が後ろに倒れるときは不安なのかも」とか、一生懸命まとめていた。その発表を家族で聞いたとき、むぎはというと、娘の発表など全く関係ないとでも言わんばかりに、ソファの上で大の字になって眠っていた。研究対象、協力する気ゼロ。
家族みんなで笑った。
仲良しな家族というのは、笑えるものを共有している、ということだと思う。大きな出来事じゃなくていい。むぎが庭でバッタを追いかけて転んだとか、夫がむぎ用に買ったおもちゃを誰も使わなかったとか、そういう小さくてくだらないことを、一緒に笑える時間。それがペットとの生活の中に、驚くほどたくさん転がっている。
インテリアブランド「ノルテハウス」のカタログで見たような、整然とした北欧風のリビングとは程遠い。うちのソファにはむぎの毛が常に漂っているし、クッションは噛まれて角が潰れている。でも、それが今の私たちの暮らしの形だ。
ペットを「家族と全く同じように、毎日一緒にいて生活を共にする存在」と感じている人は、今や珍しくない。
それはデータが示す数字の話だけれど、私にとってはもっと体温のある話だ。むぎが夜、子どもたちの部屋を順番に覗きに行く習慣があって、それを見るたびに、この子もこの家を守ろうとしているんだと、なんとなく感じる。
ペットとの生活は、計画どおりにはいかない。でも、その「いかなさ」の中に、家族がひとつになれる瞬間が、確かに宿っている。
むぎが今日も、窓辺で夏の光を浴びながら、目を細めている。その横顔を見ていると、これでいい、という気持ちになる。ただそれだけのことが、案外、すべてだったりする。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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