ペットが病気になった夜、わたしたちにできること

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八月の終わりごろ、夕方の光がオレンジ色からじわじわと茜色に変わっていく時間帯のことだった。ソファの上でうとうとしていたはずのムギ——うちの七歳になるミニチュアダックスフンド——が、夕飯のドライフードに一切口をつけなかった。いつもなら器の前に座って、こちらが準備を終える前から前脚をばたつかせるくらいの食いしん坊なのに。その日は、ただじっと床に顎を乗せたまま、わたしの目をぼんやりと見上げていた。

なんとなく嫌な予感がした。動物と暮らしていると、言葉のないところに気配を読む習慣が自然とついてくる。子どもの頃、実家で飼っていた柴犬のクロが体調を崩したときも、最初のサインは「いつもと違う静けさ」だった。あの記憶が、ふいによみがえった。

ムギの鼻先に手を当てると、いつもひんやりとしているはずの感触が、少しだけ乾いていた。体温が上がっているのかもしれない。部屋には夏の夕暮れ特有のむわっとした熱気が残っていて、窓から入る風もほとんど動いていなかった。エアコンの設定温度を確認しながら、頭の中ではすでに「ペット病院に電話すべきか」という問いが回り始めていた。

ペットとの生活は、こういう瞬間に突然、重さを帯びる。日常の中では「家族の一員」という言葉がするりと出てくるけれど、いざ体調の異変に直面すると、その言葉の本当の意味を改めて思い知らされる気がする。かわいい、愛しい、だけじゃない。責任という感覚が、じわりと胸に広がる。

その夜、かかりつけのペット病院——「グリーンパウ動物クリニック」——に電話をした。診察時間ギリギリだったが、獣医師の先生は丁寧に症状を聞いてくれた。「食欲不振と元気のなさが同時に出ているなら、明日の朝一番で連れてきてください」という言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

翌朝、診察室の冷たい金属台の上でムギは小さく震えていた。緊張しているのか、それとも本当に具合が悪いのか。先生が聴診器を当てながら「ちょっと腸の音が弱いですね」とつぶやいた瞬間、わたしは何も言えなくなった。検査の結果、軽度の胃腸炎とのことで、点滴と投薬で数日様子を見ることになった。深刻な病気ではなかったが、あの朝の緊張感は今でも鮮明に残っている。

病院からの帰り道、ふと思い出したのがペット保険のことだった。加入したのは三年前で、正直なところ「お守り代わり」くらいの気持ちだった。でも今回の診察費用の明細を見て、保険があって本当によかったと感じた。
ペットの病気は犬種や年齢、性別によってかかりやすいものが異なるため、健康なうちにペット保険に加入しておくことが大切だ
と言われているが、実際に使う場面に立って初めてその言葉の重みが腑に落ちた。

飼い主であれば誰もが望むペットの健康だが、生き物である以上、病気やケガはつきものだ。
頭でわかっていても、いざ目の前でムギが苦しそうにしていると、「もっと早く気づいてあげられたら」という後悔が波のように押し寄せてくる。

病気になったとき、飼い主にできることはそれほど多くない。いつもと違うサインを見逃さないこと。信頼できるペット病院をあらかじめ見つけておくこと。そして万が一に備えてペット保険を整えておくこと。それくらいだ。でも、その「それくらい」が、いざというときに大きな差を生む。

ひとつだけ、少し笑えた話をするとすれば——帰宅後、投薬のために薬をフードに混ぜて出したところ、具合が悪かったはずのムギが薬だけを器用によけて完食していた。あんなに食欲がなかったのに、と思わず苦笑いした。こちらの心配をよそに、ちゃっかりしているところは本当に変わらない。

ペットを「家族の一員」として描くことが、現代のペットとの関係性の本質だ
という言葉をどこかで読んだことがある。病気の夜を一緒に越えてみると、その言葉がただのキャッチコピーではないとわかる。ペットとの生活は、喜びだけでできているわけじゃない。不安も、焦りも、涙をこらえる夜も、全部ひっくるめて、一緒に生きているということなのだと思う。ムギは今日も、夕方の光の中でソファの上に丸まっている。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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