
九月の朝はまだ少し蒸し暑い。カーテンの隙間から差し込む白っぽい光が、フローリングの上にうとうとしている茶色い塊を照らしていた。我が家のトイプードル、ムギだ。そしてその隣には、パジャマのまま床に転がった六歳の娘・はなが、小さな手をムギの背中にそっと乗せて、一緒にまどろんでいる。
こういう朝が、当たり前になってきた。
ペットとの生活が始まったのは、はなが四歳のころだった。近所のペットショップの前を通るたびに「いぬ、かいたい」と繰り返す娘の声に、正直なところ最初は腰が引けていた。世話ができるだろうか、アレルギーは、費用は——と頭の中でぐるぐると計算していたあの頃。でも今となっては、あの迷いが少し可笑しくなるくらい、ムギはこの家の中心になっている。
近年、日本ではペットが家族の一員として大切に飼育される傾向が強まっている
というデータを目にしたことがあるが、それは数字の話ではなく、毎朝この光景を見ている私には、皮膚感覚でわかることだった。
はなとムギのふれあいは、最初から上手くいっていたわけじゃない。はなは力の加減がわからなくて、ムギの耳を引っ張ってしまったり、おもちゃを取り上げようとして噛まれそうになったり。そのたびに私が「やさしくね」と声をかけた。何度も、何度も。でも不思議なことに、ムギは怒らなかった。少し離れて、またすぐに戻ってきた。その繰り返しの中で、はなは少しずつ「相手がいること」を学んでいったように思う。
ある日の夕方、台所でカレーを煮ていたとき、スパイスの香りが部屋中に広がる中で、はなが「ムギ、おなかすいてないかな」と言いながら、自分のおやつを分けようとしていた——もちろん犬に人間のお菓子はあげられないので、すぐに止めたけれど——その小さな気遣いに、胸が詰まった。自分のことより先に、誰かのことを考えられるようになっていた。
子供の成長というのは、親が教えるものだと思っていた。でも、ムギが教えてくれていることの方が多いかもしれない、と最近は感じている。
散歩に出れば、ムギは必ずはなの横を歩く。引っ張ったり、急に止まったり、気まぐれなくせに、はなが転びそうになると立ち止まる。まるで見えない紐で繋がっているみたいに。秋の入り口、金木犀が咲きはじめる少し前のあの夕暮れどき、三人(一人と一匹と一匹?)で歩いた帰り道のことは、たぶんずっと覚えているだろう。
ムギのやわらかい毛の感触、はなの手のひらの温かさ、夕焼けの橙色。五感の全部に、その日の空気が刻まれている。
架空の話ではなく、私自身の子ども時代にも似た記憶がある。実家で飼っていた雑種犬のシロが、私が泣いていると必ず隣に来て、鼻先をひざに押しつけてきた。言葉はないのに、ちゃんとわかってくれていた。あの温度を、はなにも知ってほしくて——気づけばそれが、ムギを迎えた本当の理由だったのかもしれない。
最近、ナチュラル系のペット用品ブランド「モリノテ」のリードを使い始めた。革製で少し値が張るけれど、手に持ったときのしっとりした感触が気に入っている。はなも「これ、かわいい」と言って、自分でリードを持ちたがるようになった。散歩が、ただの運動ではなく、ふたりの儀式みたいになってきた。
ペットとの生活は、日常の密度を変える。何でもない午後が、ムギの寝顔ひとつで特別になる。はなが「ムギ、だいすき」と言うとき、その声には一年前とは違う重さがある。責任とか、愛情とか、そういう言葉では追いつかない何かが、六歳の体の中に静かに育っている。
子供の成長を見守ることと、ペットとのふれあいを重ねること——この二つは、思っていたよりずっと深いところで繋がっていた。ムギがいるから、はなは優しくなれる。はなが育つから、ムギも安心して眠れる。そういう循環の中に、私たちの毎日はある。
今朝も、九月の光の中で、ふたりはまだ眠っている。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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