
九月の終わり、午後の光がやわらかく斜めに差し込む時間帯のことだった。窓のそばに置かれた「ソレイユ・ノワール」というフランス語名の観葉植物の葉が、風もないのにほんのりと揺れていた。その根元で、うちの柴犬のムギが丸くなって眠っていた。そしてその隣に、五歳の息子のハルがぴたりと寄り添って、同じように目を閉じていた。
二人とも、昼寝をするつもりなんてなかったはずだ。ハルはさっきまで「公園行く!」と騒いでいたし、ムギはその声に耳をぴんと立てていた。それがいつの間にか、こうなっていた。
ペットとの生活というのは、こういう瞬間の積み重ねなのだと思う。計画していない、でも確かに存在する、やわらかい時間。
私が子供のころ、実家には一匹の雑種猫がいた。名前はシロ。白くなかったのに、なぜかシロだった(そのことに誰も疑問を持っていなかったのが、今考えると少し不思議だ)。学校から帰るとシロが玄関に来ていて、その温かい体を抱き上げると、なんとなく今日あった嫌なことが半分くらいになる気がした。あの感覚を、ハルも今ちゃんと知りつつある。
ムギとハルのふれあいは、最初からうまくいっていたわけじゃない。ハルが三歳のとき、突然ムギの耳を引っ張って、ムギに低く唸られたことがあった。ハルは泣き、私は慌て、ムギはしばらくソファの下に隠れた。でもその夜、ハルはムギのそばにそっと近づいて、「ごめんね」とつぶやいた。言葉にするより先に、体が動いていた。
子供は、ペットとのふれあいを通じて、言葉にならないものを学んでいく。相手が怒っているとき、悲しんでいるとき、甘えたいとき。それをムギは全身で表現して、ハルはそれを全身で受け取っていた。
ムギの毛は、秋になると少し密度が増す。ハルがその背中に顔をうずめると、ほのかに日向のにおいがする。乾いた草と、どこか甘いような体温のにおい。ハルはそれが好きで、「ムギ、あったかい」といつも言う。その声がとても小さくて、私はいつも聞き逃しそうになる。
ペットとの生活は、子供の感受性を静かに育てる。それは誰かに教わるものじゃなく、毎朝のごはんの時間に、散歩のあとに、眠る前の少しの時間の中に、自然と染み込んでいくものだ。
先月、ハルが保育園から帰ってきたとき、「今日ね、お友達が泣いてたから、隣に座ってあげた」と話してくれた。それだけのことだ。でも私には、その「隣に座る」という行為がどこから来たのか、なんとなくわかる気がした。ムギが具合の悪い日、ハルはずっとそばを離れなかった。ただ、隣にいた。
ふれあいというのは、技術じゃない。距離感だ。近づきすぎず、離れすぎず、相手の呼吸に合わせること。それをムギは、言葉なしにハルに教えていた。
今日もまた、夕方になればムギが玄関で待っている。ハルが帰ってくる音を、あの耳で聞き分けながら。そしてドアが開いた瞬間、しっぽを振りながらぐるぐると回る。ハルはランドセルを放り投げるより先に、ムギに抱きつく。毎日、毎日、同じように。でもその繰り返しの中に、二人はたしかに何かを積み上げている。
ペットと子供が一緒に育つ家の空気は、少しだけ違う。うまく言えないけれど、やさしさの総量が多い、とでも言えばいいだろうか。
九月の光の中で眠る二人を見ながら、私はそっとカメラを向けた。シャッター音で起こしてしまわないように、息を止めて。ムギの耳がぴくりと動いた。やっぱり、気づいていた。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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