
四月の終わり、夕方四時をすこし過ぎたころ。縁側から差し込む光が、フローリングの上にうすく伸びていた。その光のまんなかに、うちの柴犬・むぎが丸くなって目を細めている。そこへ、六歳の娘・はなが音もなく近づいて、そっとその背中に頬をつけた。むぎは耳だけぴくりと動かして、それ以上は何もしなかった。
ペットとの生活を始めてから、もうすぐ三年になる。
最初はどうなることかと思っていた。正直に言えば、わたし自身が子供のころに動物を怖いと感じていた記憶があって——小学二年生のとき、近所の大きな秋田犬に吠えられて泣きながら帰ってきた、あの夕暮れの感触が、ずっと体のどこかに残っていた。だから「犬を飼いたい」という娘の言葉に、すぐにうなずけなかったのも事実だ。
それでも、むぎがうちにやってきた。
はじめの一週間は、はなもむぎも、お互いをそっと観察するだけだった。はなはむぎの水皿の前にしゃがんで、「水、飲む?」と聞いていた。むぎは飲まなかった。それでもはなは毎日同じ場所にしゃがんで、同じことを聞いた。五日目の朝、むぎはようやくはなの指先をひとなめした。はなは声を上げずに、ただにこっとした。その顔を見て、わたしは急に目の奥が熱くなった。
子供とペットのふれあいというのは、言葉を使わない対話だと思う。
むぎの毛は、春になると少し柔らかくなる。冬の硬さが抜けて、指を差し込むとふわりと沈む感触がある。はなはそれを「雲みたいな毛」と呼んでいて、毎朝起きるとまずむぎの背中に手を置く。むぎのほうも、はなが近づく足音を聞き分けているらしく、尻尾がゆっくりと揺れ始める。
ペットとの生活が子供に与えるものは、目に見えないものが多い。思いやりとか、責任感とか、そういう言葉で説明されることもあるけれど、実際のところはもっと地味で、もっと静かなことの積み重ねだ。むぎのごはんを忘れたとき、はなが「むぎ、おなかすいてる」と気づいて教えに来る。わたしが気づくより先に。そういう小さな変化が、日々のふれあいの中でゆっくりと育まれていく。
ある日曜の昼前、はながむぎにリボンをつけようとしていた。むぎは嫌がって頭をぶんぶん振り、リボンは見事に飛んで、わたしのコーヒーカップの中に落下した——もちろん、中身はまだ入っていた。はなは固まり、むぎは知らん顔で伏せ直した。誰も悪くないのに、なんとなく全員が静止した、あの数秒間。
架空のインテリアブランド「ハウスリーフ」のカタログで見たような、きれいに整ったペットとの暮らしとは、ずいぶん違う。でも、この散らかったふれあいの時間のほうが、ずっとほんとうの暮らしに近い気がする。
むぎがうちにきてから、はなの言葉が増えた。「むぎが悲しそうだった」「むぎ、今日はうれしかったと思う」。感情を、自分以外の誰かに重ねて考えるようになった。それがペットとのふれあいが子供にもたらす、いちばん静かで、いちばん深いものなのかもしれない。
縁側の光が少し傾いてきた。むぎはまだ目を細めていて、はなはその隣に寝転んで、二匹——いや、一匹と一人が、同じ方向を向いていた。特に何かをしているわけではなく、ただそこにいる。それだけのことが、なぜこんなに美しいのか。ペットとの生活を続けていると、そういう問いに何度も出会う。そして答えは、いつも言葉にならないまま、あたたかい毛の感触の中に溶けていく。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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