
五月の朝は、思ったより早く明けた。
カーテンの隙間から差し込む光が、フローリングの上にうすく伸びていて、その光の中でムギ——三歳になったばかりのビーグル——が小さく鼻を鳴らしながら起き上がった。今日は長野まで行く日だ。前日の夜にトランクへ積み込んだクレートと、使い慣れたクッションマット。
持ち物はできるだけ使い慣れたものを揃えておくことが大切で、慣れない環境に加えて新しいグッズに戸惑ってしまうこともある。
そのことを思い出して、去年の秋から使っているくたびれたマットをそのまま持っていくことにした。新しいものを買おうか迷ったのは正直なところだが、ムギが一番安心するのはあの匂いのついたマットだと、長い付き合いの中で分かっていた。
ペットとの生活が、旅のかたちを変えている。
「家族だから」という理由で愛犬を連れて旅行に行きたいと考える飼い主は94.5%にのぼるという調査結果もある。
ひと昔前なら「犬は留守番」が当たり前だったのに、今では車で一緒に出かけることが、ごく自然な選択肢になっている。
実際、愛犬との旅行時には約84%の方が自家用車を利用すると回答したという調査もある。
それだけ、ペットとの移動における車の存在は大きい。
出発したのは朝七時を少し過ぎた頃。中央道に乗ると、空は淡い水色で、山の稜線がまだ霞んでいた。ムギはクレートの中でしばらくそわそわしていたが、高速に乗って三十分ほど経つと、ふいに前脚を伸ばして横になった。その仕草がなんとなく「もう慣れた」という宣言みたいで、少しおかしかった。——ちなみに出発前、「今日はどこ行くの?」とでも言いたそうに顔を舐めてきたムギを、思わずクレートに入れ忘れたまま助手席に座らせてしまい、インターの手前で慌てて停車したのは、ここだけの話である。
車の芳香剤や消臭剤、ガソリンのニオイも嗅覚に優れた犬にとっては強い刺激になるため、香りが強いものは使用を避け、こまめに換気することが車酔い防止につながる。
だから車内には何も置かない。窓を少し開けると、五月の風が細く入ってきて、青草のような香りがした。ムギの鼻がぴくりと動いた。
長距離移動で一番気をつけていること、と聞かれたら、迷わず「休憩の頻度」と答える。
1時間半に1回は高速道路のドッグランで走らせてあげることが、愛犬との長距離移動では大切にしているポイントのひとつだという経験談もある。
諏訪湖サービスエリアで一度降りた。ムギはリードをつけた瞬間に全身でよろこびを表現して、地面の匂いを嗅ぎながら小走りに進んでいった。芝生の上に朝露がまだ残っていて、ムギの足先がほんのり濡れた。その感触が気持ちよかったのか、何度も同じ場所を踏んでいた。
注意することは、ほかにもある。
真夏の時期はもちろん、春先や秋口であってもエンジンを止めた際の車内温度は一気に上昇するため、愛犬を車内で留守番させることのないよう徹底することが大切だ。
五月といえど油断はできない。休憩のたびに必ず誰かが車に残るか、ムギを連れて出るかを決めている。それがペットとの生活において、旅先でも変わらないルールだ。
長距離の場合は消化のよい食べ慣れたフードを、いつもの量より少し減らして持っていくとよい。ドライブの合間に与えることは避け、目的地に到着してからあげるのが基本だ。
この日も朝ごはんは出発の二時間以上前に済ませた。旅先で体調を崩してほしくない、ただそれだけの気持ちから。
長野に着いたのは昼過ぎだった。標高が上がるにつれて空気がひんやりと変わり、ムギの耳がぴんと立った。「MORINO CABIN」という名の小さなコテージに泊まる予定で、ドッグランが敷地内にある。チェックインを済ませてドアを開けると、木の香りと冷たい空気が一緒に流れ込んできた。ムギは一瞬だけ立ち止まって、それからゆっくりと中に入っていった。
車での移動は慣れてきても少なからずストレスを与えてしまうかもしれないが、きっと愛犬も一緒に行動するということに喜びを感じてくれているはずだ。
その言葉を、ムギの横顔を見ながら思い出した。窓の外には針葉樹の森が広がっていて、夕方の光が斜めに差していた。ムギは縁側に座って、その光の中でゆっくりと目を細めた。
旅は、まだ始まったばかりだった。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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