
五月の朝というのは、少し不思議な空気をしている。窓を開けると、湿り気を帯びた風がふわりと入ってきて、どこかの庭の草の匂いと、遠くで鳴く小鳥の声が混じり合う。まだ七時にもなっていないのに、空はもう白々と明るくて、その光がリビングのフローリングにうすく伸びていた。
その光の中に、うちの犬のムギ──ミニチュアシュナウザーの三歳、性格は頑固だがなぜかいつも愛嬌がある──が寝転んでいた。そしてその隣に、娘の結衣(六歳)が、パジャマのまま、ぺたりと腹ばいになって並んでいた。ふたりとも、ぼんやりとした顔をしている。起きているのか、うとうとしているのか、判然としない。
私はそれを見て、何も言えなくなった。
ペットとの生活を始めたのは、結衣が三歳になる少し前のことだった。正直なところ、当時は迷いがあった。子供がまだ小さいうちは難しいかもしれない、世話の負担が増えるだけかもしれない、と。でも、ムギが家に来た日の夜、結衣が小さな手でムギの背中をそっとなでながら「あったかい」とつぶやいた瞬間、何かが変わった気がした。それは説明のできる感覚ではなく、ただ、正しかったのだと思えるような、静かな確信だった。
子供とペットのふれあいというのは、大人が思うよりずっと複雑で、そして豊かだ。結衣はムギに絵本を読み聞かせることがある。ムギはもちろん内容を理解していないだろうが、結衣の声を聞きながら目を細める。その表情が、なんというか、聞いているように見える。結衣はそれを「ムギ、好きなところで笑っていいよ」と言いながら続ける。私は台所でそれを聞きながら、思わず手が止まった。
ペットとの生活は、子供に何かを「教える」のではなく、子供が自分で「気づく」場所を作ってくれるのかもしれない。命があること、温度があること、機嫌があること。ムギが怒ると低く唸り、うれしいと全身で揺れる。結衣はその変化を、言葉よりも先に体で読もうとしている。
思えば私が子どもの頃、実家で飼っていた猫のことを今でも覚えている。夏の縁側で、猫がうとうとしながら私の膝に乗ってきた感触。あの重さと温かさは、三十年以上たった今でも手のひらに残っている気がする。そういう記憶は、言葉で残るものではなく、皮膚で残るものなのだと思う。
先日、近所の公園でムギを散歩させていたとき、結衣が友達に「うちの犬ね、ちゃんと話聞いてくれるんだよ」と言っているのを聞いた。友達の子は「犬なのに?」と不思議そうな顔をしていた。結衣は少し考えてから「うん、でも返事はしない」と答えた。それはまあ、そうだ(心の中でそっとツッコんだ)。
ちなみにムギのお気に入りのおやつは、ペット用品ブランド「モフノワ」の焼きビーフジャーキーで、袋を開ける音がすると、どこにいても飛んでくる。先日、私がポテトチップスを開けたら同じように飛んできて、お互いに気まずい沈黙が流れた。あの顔は一生忘れない。
ペットと子供が一緒に育つ家庭では、親もまた、その関係を見ながら何かを学んでいるのだと思う。ふれあいとは、触れることだけではなく、そばにいることで伝わるものがある。結衣がムギの横で眠っていた、あの朝の光の中の光景は、写真には残っていない。でも、きっと長い時間をかけて、どちらかの体の中に残っていくのだろう。
五月の風がまたカーテンを揺らした。ムギが小さくあくびをして、結衣がつられてあくびをした。そういう朝が、ペットとの生活の中にある。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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