ペットと子供が育てあう日々──ふれあいの中で芽生えるもの

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梅雨の晴れ間の、午前十時ごろのことだった。縁側に差し込む白い光が、フローリングの上に細長い四角を描いていて、その真ん中にうちの犬のムギがまるくなっていた。トイプードルの、ほんの少しアプリコット色が混じった白い毛。娘の凛(りん)は四歳で、そのムギのそばに膝を折って座り込み、じっと顔を覗き込んでいた。何かを言おうとして、でも言葉が出てこなくて、ただ小さな手のひらをムギの背中にそっと置いていた。

ペットとの生活というのは、こういう瞬間の積み重ねなのだと、最近ようやく思う。

ムギがうちに来たのは凛が二歳の秋だった。正直に言えば、そのタイミングは少し早かったかもしれない。
ペットを迎えるならば、子どもの理解力がある程度育ってからがベストという考え方もある。
それでも、あの日ペットショップのガラス越しに目が合ったムギの顔を見て、夫と私はほとんど同時に「この子だ」と思ってしまった。理屈ではなかった。

最初の半年は、正直なところ、かなりバタバタしていた。凛はムギのしっぽを引っ張ろうとするし、ムギは凛の食べかけのクッキーを狙うし、二者の間でわたしは毎日仲裁係だった。ムギが凛の絵本をくわえて走り回ったとき、凛は泣いた。ムギはしっぽを振っていた。あの光景を思い出すと、今でも少し笑ってしまう。ムギにしてみれば、あれは遊びの誘いだったのだろうけれど。

それが変わってきたのは、凛が三歳を過ぎたあたりだった。

ある朝、凛が自分からムギのご飯をよそおうとしていた。ドッグフードの袋を両手で抱えて、ふらふらしながら、でも真剣な顔で。こぼした分は自分で拭こうとして、ティッシュを三枚も使っていた。誰かに言われたわけじゃない。ただ、ムギが待っているのを見て、自分でそうしようと思ったのだ。

ペットという別の生き物に興味を持ち、一緒に遊んだり世話をしたりすることは、愛情や思いやりを学んだり、責任感や協調性を育んでくれる。
そのことを、わたしは教科書ではなく、あの朝の凛の背中で知った。

ふれあいというのは、ただ触れることではない。気配を感じること、相手のペースに合わせること、待てること。凛はムギとの日々の中で、そういうことを少しずつ身につけていったように見える。ムギが眠そうにしているときは「ムギ、ねんね?」と言って、そっとその場を離れるようになった。四歳の子が、そうやって「相手の状態を読む」ということを覚えていく。

わたし自身、子どものころに犬を飼っていたことがある。実家のそばにあった「ハナミズキ公園」で、父と一緒に散歩した夕方の空気を、今でもときどき思い出す。あの犬の名前はクロで、雑種で、耳だけが妙に大きかった。クロと並んで歩くとき、わたしは何か特別なことを学んでいたわけじゃないと思う。でも、あのころの記憶が今の自分の中にある種の「やわらかさ」として残っている気がして、だから凛にもこういう時間を持ってほしかった。

親子でペットを思いやって関わりながら、ともに成長していくという意識が大切だ。
その言葉は、うちの場合はそのまま当てはまる。わたしも、凛と一緒に育てられているのだと感じることが、少なくない。

先日、近所のペット用品店「モフリエ」で、凛が自分のお小遣いからムギのおやつを選んだ。棚の前でしばらく悩んで、いちばん小さいパッケージを手に取った。「これがいい。ムギ、小さいから」と言って。そのひとことに、わたしは少しだけ胸が詰まった。

日本ではペットが家族の一員として大切に飼育される傾向が強まっており、犬猫の平均寿命も長寿化が進んでいる。
ムギとの時間は、まだまだ長く続くはずだ。凛が小学校に上がっても、中学生になっても、ムギはきっとそこにいる。その時間の中で、凛はどんなふうに変わっていくだろう。

縁側の光の中で、ムギがのびをした。凛がくすっと笑った。

ペットとの生活は、劇的な何かが起きるわけじゃない。ただ、こういう小さな朝が、何百回も積み重なっていく。その中で、子供の成長というのはひっそりと、でも確かに進んでいる。気づけば凛の手のひらは、ムギの背中をなでるのがずいぶん上手になっていた。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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