ペットがいる毎日が、子供の世界をそっと広げていく

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十月の終わり、朝の光がまだ斜めに差し込む時間帯のこと。窓の外では金木犀の香りがかすかに残っていて、もうすぐ消えてしまいそうだった。そんな朝、娘がリビングに駆け込んできて、床に丸まっていた猫の「むぎ」の横にそっと寝転んだ。声もかけず、ただ並んで、天井を見上げていた。その光景を台所から眺めながら、ペットとの生活というのは、こういう静かな瞬間の積み重ねなのだと、じんわり思った。

むぎがうちに来たのは、娘が三歳のときだった。正直なところ、最初は不安だらけだった。子供がいる家でちゃんとやっていけるだろうか。引っかいたりしないだろうか。でも、むぎは娘の扱いに最初から妙に寛容で、尻尾を引っ張られても、ただじっと目を細めていた。あの忍耐力、見習いたいと心から思う。

娘が四歳になった春、ふれあいの仕方を少しずつ教えるようにした。「ゆっくりなでてあげてね」と言うたびに、娘は真剣な顔をして、手のひらをそっと毛並みに沿わせた。その手つきの、なんとも言えない不器用な優しさ。力加減がまだよくわからないのに、傷つけたくないという気持ちだけははっきりしていた。むぎのほうも、そういう気持ちをどこかで感じ取っているのか、娘の前では決して逃げなかった。

ペットとの生活が子供に与えるものは、言葉では少し説明しにくい。責任感とか、命の大切さとか、そういう立派なことを言いたいわけではなくて、もっと手前にある何か。たとえば、むぎが風邪気味で元気がない日に、娘が自分のお気に入りのブランケット——「ネビュラホーム」というインテリアブランドのもので、薄いラベンダー色のやつ——をそっと持ってきて、むぎの体の横に広げてあげた。それを見て、私は何も言えなかった。ただ、台所のシンクのそばで、少しだけ目が熱くなった。

むぎの毛は、触るとびっくりするほど柔らかい。娘はよく「雲みたい」と言う。確かに、あの感触は何かに似ている気がして、私も子供の頃に祖母の家で飼っていた柴犬のことを思い出す。名前はコタローといって、夏の縁側でいつも腹を出して寝ていた。あの犬のぬくもりが手のひらに残っているから、今もペットのそばにいると、どこか懐かしいような気持ちになる。

娘が五歳になったある夕方、むぎが初めて自分から娘の膝の上に乗った。娘は固まった。本当に、石になったかのように動かなかった。目だけがきらきらしていて、「ままー、どうしよー」と口だけで言っている。声を出したら逃げてしまうと思ったのだろう。その判断は正しかった。むぎはそのまま十分以上、娘の膝でゴロゴロと喉を鳴らし続けた。後から娘は「あのとき、足がしびれてた」と白状した。それでも動かなかった、という事実が、なんだかとても愛おしかった。

ペットと子供のふれあいは、どちらかが一方的に与えるものではない。むぎが娘から受け取るものも、きっとある。毎朝、起き抜けに名前を呼ばれること。ご飯の時間に小さな手で器を運んでもらうこと。絵本を読んでもらうこと——そう、娘はむぎに絵本を読み聞かせる習慣があって、むぎはいつもそのとき、目を半分閉じて聞いている。理解しているのかどうかは謎だが、嫌いではなさそうだ。

ペットとの生活を通じて、娘は少しずつ変わってきた。感情の言葉が増えた。「むぎ、さみしそうだよ」「むぎ、うれしいって言ってる気がする」。動物の気持ちを読もうとする中で、人の気持ちも読もうとするようになった気がする。これは私の感覚に過ぎないかもしれないけれど、そう感じている。

十月の終わりの朝、並んで天井を見ていた娘とむぎ。あの二人が何を考えていたのかは、今もわからない。でも、その静けさの中に、ペットとの生活のすべてが詰まっているような気がした。言葉にならないものが、ちゃんとそこにあった。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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