ペットと育つ、子どもの小さな物語――ふれあいが教えてくれること

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九月の終わりごろ、夕方の光がオレンジ色に傾いてリビングの床をゆっくりと染めていく時間帯、うちの娘・はなは決まって同じことをする。ソファの脇にしゃがみこんで、トイプードルのムギの耳に顔を近づけ、何かをこそこそとささやくのだ。何を話しているのかは聞こえない。ムギはといえば、目を細めて、ほんのすこしだけ頭を傾ける。まるで聞いているみたいに。

ムギがわが家にやってきたのは、はなが三歳のときだった。あのころのはなは、まだ言葉の端々がぼんやりとしていて、「ムギ」という名前すら「ムイ」と発音していた。それでもムギはちゃんと振り返っていた。名前を、というよりも、その子の声の温度みたいなものに反応していたのかもしれない。

ペットとの生活は、予想以上に子どもを変える。いや、「変える」というより、子どもの中にもともとあったものを引き出す、という感覚に近い。はなが初めてムギのごはんを自分でよそったのは、四歳の春のことだ。スプーンで量を測ろうとして、盛大にこぼして、泣きそうな顔で私を見た。でも翌朝、また一人でやろうとしていた。ムギが待っているから、という理由だけで。

ふれあいの中で育まれるものは、言葉にするとどこか陳腐になってしまう。責任感、とか、思いやり、とか。でも実際に目の前で起きていることはもっと具体的で、もっと泥くさい。たとえばムギが散歩中に急に立ち止まったとき、はなは引っ張らずに待てるようになった。それだけで、ずいぶん時間がかかった。

私自身も子どもの頃、近所の田んぼのそばに住む親戚の家で柴犬を飼っていた。名前はコウ。夏の夕暮れ、コウと並んで縁側に座ると、草の匂いと土の匂いが混ざったような風が吹いてきた。あの感覚は今でも体のどこかに残っている。だからこそ、はなにも同じような記憶の断片が積み重なっていけばいいと思っている。

子どもの成長というのは、直線ではない。ある日突然、何かができるようになる。ある日突然、やさしくなる。はなが六歳になったある朝、ムギが珍しく食欲をなくしていた。はなは自分の朝ごはんを途中でやめて、ムギのそばにずっとついていた。何もできないのに、ただ隣にいた。その背中を見ながら、ああ、この子はもうちゃんと誰かのことを心配できるんだ、と思った。

ペットとの生活は、家族全員を少しずつ変えていく。私も夫も、ムギがいなければ気づかなかったことがたくさんある。たとえば、犬は嘘をつかない。機嫌が悪いときは正直に距離を置くし、うれしいときは全身で表現する。そのシンプルさが、家の中の空気をやわらかくする。

インテリアショップ「ハコノワ」で買ったウォールナット材のローテーブルの下が、ムギのお気に入りの場所だ。はなもそこに潜り込んで、二人でうとうとしていることがある。夕方の光の中で、犬と子どもが並んで眠っている。その光景には、なんというか、完成されたものがある。言葉を足す必要がない。

もっとも、ムギが完璧な存在かというとそうでもない。先月、はなが描いた絵をテーブルに置いたまま席を外したら、ムギが端っこをかじっていた。はなは泣くかと思ったが、「ムギも好きだったんだよ」と言って笑っていた。私は内心、「それは違う」と思ったけれど、まあ、そういう解釈もある。

ふれあいを通じて、子どもは生き物の呼吸を感じる。体温を知る。思い通りにならないことを学ぶ。ムギの毛並みに触れるはなの手は、最初のころより確かに丁寧になった。力の加減というものを、言葉ではなく感触で覚えていった。

九月の夕暮れはもうすぐ終わる。はなはまだムギに何かをささやいている。ムギは動かない。ただそこにいる。子どもの成長を、ペットはいつもそうやって静かに見守っている。そしておそらく、子どもも同じように、ペットのことを見ている。お互いに、何かを受け取りながら。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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