ペットと子供が育てる、やわらかな日々のふれあい

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七月の朝は、思ったよりも早く明ける。カーテンの隙間からすべり込んでくる光が畳の縁を白く染めるころ、うちの柴犬のムギはもう起きていて、娘の布団の横でじっと丸まっている。娘はまだ眠い目をこすりながら、無意識にムギの背中へ手を伸ばす。その小さな手が、ふわりとした毛並みに触れる瞬間——ああ、これがペットとの生活の、いちばん静かな核心だと思う。

ペットという別の生き物に興味を持ち、一緒に遊んだり世話をしたりすることは、愛情や思いやりを学んだり、責任感や協調性を育んでくれる。
とよく言われるけれど、そういう教育的な文脈よりも先に、子供とペットのあいだには言葉のいらない何かが流れているように見える。理屈ではなく、体温で通じ合っている感じ、とでも言えばいいだろうか。

娘が三歳のとき、ムギをはじめて家に迎えた。正直、最初の一週間は混乱の連続だった。ムギは興奮するとリビングを全力で駆け回り、娘が積み上げたブロックを豪快に崩していった。娘は泣き、私は焦り、ムギだけが何事もなかったかのようにしっぽを振っていた——あのときの、なんとも言えない「誰も悪くないのに全員困っている」状況は、今でも思い出すと少し笑えてくる。

それから四年が経った。娘は七歳になり、ムギは立派な中堅犬になった。
特に子供は、犬がいることで寂しさや不安がやわらぎ、つらい時にそばにいてくれる存在として受け止めていた。
という研究の言葉が、いまは肌感覚でわかる。娘が幼稚園で友達とうまくいかなかった日、帰ってきてムギに顔をうずめてしばらく黙っていた。何も言わなかった。ムギも何も言わなかった。ただ、ゆっくりと娘の頬を一度だけなめて、また伏せに戻った。それだけで、娘の肩がすこし下がった。

子どもが動物と遊んだり世話をしたりすることによって、自尊感情が高まったり自らを肯定することができるようになったりするという研究報告がある。
ムギの世話を娘に少しずつ任せるようにしたのは、そういう背景もあった。水を換えること、ごはんの量を量ること。最初は「難しい」と言っていた娘が、今では私より先にムギのボウルを洗っている。

夕方の散歩は、親子三人(一匹含む)の大切な時間になっている。近所の「みどり川沿い遊歩道」を歩くと、夏の夕暮れは橙色と紫が混ざったような空になる。川面がそれを映してゆらゆらと揺れ、草のにおいと水のにおいが混ざって鼻をくすぐる。娘はムギのリードを握りしめて、少し誇らしそうな顔で歩く。その横顔を見ていると、ペットとの生活が子供に与えているものは、情操教育などという言葉よりずっと大きくて、もっと日常的なものだと感じる。

アンケートの回答として、子供の場合「心豊かに育っている(67.8%)、生命の大切さをより理解するようになった(59.0%)、家族とのコミュニケーションが豊かになった(54.3%)」の回答が多く、子どもの成長にとってペット飼育の効用を多くの人が感じている。
数字はそう語っているが、わが家の実感はもっとシンプルだ。娘とムギがふれあう時間が増えるほど、食卓の会話が増えた。「今日ムギがね」で始まる話題は、毎晩のように出てくる。

私自身、子供のころに動物を飼った経験がなかった。実家は集合住宅で、ペットは禁止だった。だからこそ、娘がムギの耳の柔らかさを知っていること、草むらに鼻を突っ込むムギの仕草を見て笑えること、それがひどくまぶしく映る。自分にはなかったものを、娘はもう持っている。

インテリアブランド「ハコモリ」が出しているペット用のローベッドをリビングの隅に置いてから、ムギはそこをすっかり気に入った。娘もよくそこに並んで座って、絵本を読んでいる。ムギはたいていうとうとしながら、時々娘の腕に顎を乗せる。娘はページをめくる手を止めて、そっとムギの頭を撫でる。声もなく、特別なこともなく、ただそこに二つの体温がある。

ペットとの生活は、劇的なことばかりではない。むしろ、ほとんどが小さくて、地味で、繰り返しの日常だ。でも子供は、そのなかで確かに何かを受け取っている。ムギとのふれあいを通じて、娘は「生き物には気持ちがある」ということを、頭ではなく体で学んでいるように思う。

夜、ムギが先に眠りにつく。娘はその寝顔をしばらく眺めてから、「おやすみ」とつぶやく。返事はない。でも娘は満足そうに立ち上がって、自分の部屋へ向かう。この家に、ムギがいてよかった。七月の夜風がカーテンを揺らす音を聞きながら、毎晩そう思う。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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