
梅雨が明けきらない七月の朝、空はまだ薄い灰色をしていた。助手席に積んだクレートの中で、ムギ(三歳のミニチュアシュナウザー)が小さくあくびをした。そのあくびがあまりにも人間くさくて、思わず「おまえも眠いのか」と声に出してしまった。エンジンをかけると、彼はふっと目を細め、鼻先をクレートの格子に押しつけた。冷房の風が当たる位置を、自分で探しているらしい。
ペットとの生活を始めてから、旅のかたちがすっかり変わった。以前は夜行バスでも新幹線でも気にしなかったのに、今は「ムギが一緒に来られるか」が最初の問いになる。
愛犬を旅行に連れて行きたいと考える飼い主は94.5%にのぼるという調査結果がある。その理由は「家族だから」という回答が圧倒的だ。
その気持ちは、数字になってはじめて「ああ、みんな同じなんだ」と少し笑えた。
今回の行き先は、長野県の北端に近い架空の小さな宿場町、「霧ノ平(きりのたいら)」。ドッグランを備えた古民家の宿で、一棟貸しのため他の客を気にしなくていい。そこまでの距離は約三百キロ。長距離移動としては、ムギにとって初めての本格的なロングドライブだった。
出発前、わたしは獣医師に相談して酔い止めの薬を処方してもらっていた。
車酔いを防ぐには、強すぎる芳香剤やドライブ直前の食事を避け、できるだけ穏やかな運転を心がけることが大切だ。
だから朝ごはんは、出発の三時間前に済ませた。ムギはいつもより少なめの量でも文句を言わなかった。ただ、食べ終わったあと、空になったボウルをじっと見つめていた。あの表情を「納得している」と解釈するのは、飼い主のひいき目かもしれない。
高速に乗ってしばらくすると、ムギは静かになった。クレートの中で丸くなり、目を細めている。窓の外を流れる緑の山並みが、フロントガラスに反射して揺れていた。七月の朝の光は白くて柔らかく、まだ熱を持っていない。車内にはかすかにムギの毛の温もりのにおいがした——草と、少しだけ土と、なんとも言えない獣の安心感。
ペット連れのドライブは、人間の大人だけで移動する時の「1.5倍の時間がかかる」と想定してスケジュールを組むことが大切だ。
それを知っていたので、二時間ごとに休憩を入れた。最初のパーキングエリアで車を降りると、ムギはリードを引っ張りながら芝の上に鼻を押しつけ、においを嗅ぎ続けた。その真剣な顔といったら——まるで重要書類を確認する会社員のようで、思わず「そんなに大事な情報か」と心の中でつっこんだ。
犬の適温の目安としては21〜25℃がおすすめで、クレートやキャリーの中は熱がこもりやすいので、愛犬の様子をこまめに確認し、車内の温度や空気の流れを調節することが重要だ。
休憩のたびに車のドアを開けて空気を入れ替え、水を飲ませた。ムギは毎回、水をこぼしながら飲む。シートに小さな水たまりができるのが毎度のことで、もうタオルは三枚持ち歩くようになった。
注意することはほかにもある。
ドッグランやわんちゃん用の施設を利用するときには、1年以内の狂犬病予防接種証明書と混合ワクチン接種証明書が必要不可欠だ。
証明書はスマホに画像を保存しておいたが、念のため紙のコピーもグローブボックスに入れてある。こういう準備が「旅慣れ」というものだと、ムギと旅をするようになって初めて知った。
「霧ノ平」に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。山の冷たい空気がドアを開けた瞬間に流れ込んできた。ムギはクレートから出るなり、鼻をひくひくさせながら、見知らぬ土地のにおいを全力で吸い込んでいた。尻尾が、止まらなかった。
2026年の旅行トレンドとして、ペット同伴旅行の予約が前年比260%増と大幅に急増している。
数字はたしかにそうかもしれない。でも、わたしにとってこの旅の意味は統計の外にある。ムギが草の上に転がって、背中を擦りつけながら目を細めているのを見たとき、「来てよかった」と思った。それだけで十分だった。
ペットとの生活は、計画を少し複雑にする。長距離移動には準備が要るし、注意することも増える。でも、その手間のぶんだけ、旅はずっと深くなる。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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