
七月の朝は、やけに光が鋭い。カーテンの隙間からリビングに差し込む陽が、フローリングの上に細長い帯を作っていて、その上にちょうど、茶色い塊がのびのびと横たわっていた。わが家のトイプードル、麦(むぎ)である。生後三年、体重三・二キロ。どこからどう見ても、この家の主のような顔をして眠っている。
ペットとの生活を始めたのは、娘が小学二年生になった春のことだった。夫が「犬、飼ってみようか」と言い出したとき、正直なところ私は半信半疑だった。世話は誰がするの、散歩は、医療費は——そんな現実的な心配が頭をよぎった。でも今となっては、あのとき夫の提案を受け入れてよかったと、心の底から思っている。
麦がわが家にやってきてから、家族の景色が変わった。
たとえば夕食後のこと。以前はそれぞれが自室に引き上げていた時間に、今はリビングに全員が集まるようになった。麦がボールをくわえて娘のところへ持っていき、娘が投げ、息子がそれを横取りしようとして笑いが起きる。ただそれだけのことなのに、なぜかとても豊かな時間に感じられる。家族が「仲良し」でいられるのは、麦という共通の話題と温もりがあるからかもしれない。
子どもの頃、実家で柴犬を飼っていた記憶がある。名前はクロで、玄関先につながれていた。一緒に布団で眠るとか、ソファで寄り添うとか、そういう距離感ではなかった。だから今、麦が膝の上で丸くなって寝息を立てているのを感じるたびに、なんだか不思議な気持ちになる。ぬるい体温が太ももに伝わってきて、それがひどく安心する。
ある土曜日の午後、「ノルディカホーム」というインテリアショップで買ったローウッドのテーブルの前で、夫がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。麦はその足元でうとうとしていたのだが、夫が紙面をめくる「パサッ」という音に反応して、ぴくっと耳を立てた。そしてまた、すぐに眠った。その一連の動作があまりにも小さくて、あまりにも可愛くて、思わず笑ってしまった。夫は気づいていなかった。こういう瞬間を、私だけが目撃している。それがなんだか少し得した気分で、悪くない。
ペットとの生活には、もちろん大変なこともある。梅雨の時期は散歩のタイミングが難しく、雨上がりの蒸した空気の中で麦の足を拭く作業が地味に続く。去年の夏、娘が麦のシャンプーをひとりでやろうとして、バスルームが泡だらけになったこともあった。怒る気にもなれなかった。麦も娘も、びしょ濡れで目が合って、二人ともきょとんとしていたから。
それでも、こうした小さな出来事のひとつひとつが、家族の記憶になっていく。
麦がいることで、息子は「生き物の気持ちを考える」ようになったと思う。以前は少し乱暴に扱いそうになることもあったが、今は麦の様子をよく観察して、「今日なんか元気ないんじゃない?」と気にかけるようになった。ペットとの生活が、子どもの感受性を育てるというのは、あながち大げさな話ではない。
夜、家族が眠りにつく頃、麦は決まって娘の部屋の前の廊下で丸くなる。娘のベッドには入れてもらえないのに(アレルギーの心配があって)、それでも一番近い場所を選んで寝ているのだ。その健気さが、毎晩じんわりと胸に来る。
ペットは家族を映す鏡のようなものかもしれない。麦がのびのびと幸せそうにしているとき、この家が穏やかであることを実感する。家族みんなが仲良しでいられるのは、もしかしたら麦のおかげで、お互いを気にかける習慣が自然と生まれているからではないかと、七月の朝の光の中でぼんやりと思う。
麦はまだ眠っている。陽の帯が少しずつ動いて、今は麦の耳のあたりを照らしていた。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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