ペットと子供が育てあう日々――ふれあいの中で芽吹く、小さな命の物語

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十月の朝は、空気がやけにきりっとしている。窓の外にはまだ薄い靄がかかっていて、カーテン越しに差し込む光がどこかやわらかい。そんな朝、うちのリビングでは毎日、小さなドラマが繰り広げられる。

娘の彩乃(あやの)が、床にぺたんと座ってミニチュアダックスフントの「こむぎ」を抱きしめている。こむぎは迷惑そうに鼻を鳴らしながらも、しっぽだけはゆっくりと揺れていた。「嫌いじゃないけど、もうちょっとそっとしてほしい」という気持ちが、あのしっぽに全部込められているような気がして、私はひとりで少し笑ってしまう。

ペットとの生活を始めたのは、彩乃がまだ三歳の頃だった。あの頃の彼女は、こむぎの毛並みに触れるたびに「ふわふわ!」と叫んで、その声があまりに大きいものだから、こむぎが毎回びくっと肩をすくめていた。今思えば、こむぎはずいぶんと忍耐強かった。

ペットとのふれあいが子供の成長にいい影響を与えると、育児雑誌で読んだことはあった。でも、実際に日々を共にしてみると、それはもっと静かで、もっと深いところで起きていることだと気づく。彩乃がこむぎの水を替え忘れたとき、「ごめんね」と言いながら器を洗う横顔。その言葉が、誰かに言われたわけでもなく、自然と口をついて出てくるようになったのは、いつからだっただろう。

私自身、子どもの頃に犬を飼っていた記憶がある。実家のそばにあった「シロカワ公園」の桜の木の下で、当時飼っていたビーグルの「ポチ太」と並んで座っていた、あの午後の感触。草の匂いと、犬の温もりと、どこかで鳴く鳥の声。子供というのは、言葉よりも先に感覚で何かを覚えていくのかもしれない。

彩乃も、きっとそうだ。こむぎの体温を手のひらで感じながら、命というものの重さを、理屈ではなく皮膚で学んでいる。

ペットとの生活は、決してきれいごとだけではない。トイレの失敗、夜中の鳴き声、散歩を嫌がる雨の日。それでも彩乃は、文句を言いながらも毎朝こむぎのご飯を用意する。こむぎが食べ終わるのをじっと見届けてから、自分も朝ごはんの席につく。その順番が、いつの間にか当たり前になっていた。

先日、彩乃が通う小学校でクラスの友達がペットを飼い始めたという話を聞いた。「うちはこむぎがいるから、アドバイスしてあげた」と、少し誇らしそうに話す彼女の顔に、何か確かなものが宿っていた。自信、というより、もっと静かな充実感。それは、ふれあいの積み重ねが育てたものだと思う。

架空のインテリアブランド「ノルテハイム」のカタログに、こんな一文があった。「暮らしとは、共にいることで完成する」。ペットと子供の関係を見ていると、その言葉がじんわりと腑に落ちる。

子供の成長は、目に見えるものだけではない。背が伸びること、字が上手になること、そういった変化は写真に残せる。でも、こむぎと過ごす中で彩乃が身につけてきた「やさしさの作法」は、どんな写真にも写らない。それがかえって、かけがえのないものに思えてくる。

十月の朝はまだ続いている。こむぎは今、彩乃の膝の上でうとうとしはじめた。彩乃は動かないように、ゆっくりと息を整えている。ランドセルを背負う時間は、もうすぐそこだ。それでも彼女は、こむぎが目を覚ますまで、静かにそこにいた。

ペットとの生活は、子供に何かを「教える」のではなく、子供が自分で「気づいていく」ための時間を、そっと差し出してくれるものなのかもしれない。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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