
うちに犬が来たのは、娘が4歳の冬だった。
保護犬の譲渡会で出会ったミックス犬で、名前はムギ。娘が最初にムギを見たときの顔、今でも覚えてる。目をまん丸にして、息を止めて、そのあと「わんわん…」って小さな声で呟いた。あの瞬間から何かが始まったんだと思う。
最初の数週間は正直しんどかった。ムギは人懐っこい性格だったけど、娘はどう接していいかわからなくて、触ろうとしては手を引っ込めて、近づいては逃げて。私も「ほら、優しくね」とか「こうやって撫でるんだよ」とか声をかけるんだけど、娘は緊張しすぎて固まってる。ムギの方はしっぽ振りまくってるのに、娘だけガチガチ。見てるこっちがハラハラした。
で、変化が起きたのは梅雨に入った頃だったかな。娘が幼稚園から帰ってきて、玄関でムギが出迎えると、娘が自然にしゃがんでムギの頭を撫でたんだよね。何の躊躇もなく。それまでずっと私が「撫でてあげたら?」って促してたのに、この日は勝手に。しかもムギの耳の後ろをちゃんと掻いてあげてて、ムギが気持ちよさそうに目を細めてた。あれ、いつの間に覚えたんだろう。
子供って観察してるんだよね、大人が思ってる以上に。私がムギの世話をしてる様子を、娘はずっと横で見てたんだと思う。餌をあげるタイミング、水を替えるタイミング、散歩の前にリードをつける手つき。全部吸収してた。
そういえば去年の夏、娘が突然「ムギのお水、ぬるくなってるよ」って教えてくれたことがあった。私がキッチンで夕飯の支度してたとき。見に行ったら本当にぬるくなってて、慌てて冷たい水に替えた。娘は得意げに笑ってたけど、私はちょっとドキッとした。この子、ムギのこと、ちゃんと見てるんだなって。
最近は朝のルーティンが変わった。以前は私が起こさないと起きなかった娘が、今は自分でアラームをセットして、ムギより早く起きてくる。理由を聞いたら「ムギがおしっこ我慢してるかもしれないから」だって。6歳児の発言とは思えない。朝7時前の薄暗いリビングで、娘がムギのリードを持って玄関に向かう後ろ姿を見ると、なんか胸がいっぱいになる。背中がちょっと大きく見えるというか。
責任感って、教えて身につくものじゃないのかもしれない。
友達の子が遊びに来たとき、面白いことがあった。その子が「犬って怖い」って言ったんだよね。それを聞いた娘が、すごく真剣な顔で「怖くないよ。ムギは優しいもん。ほら、こうやって手の匂い嗅がせてから撫でるの」って説明し始めた。その子は最初怖がってたけど、娘の言う通りにやったら、最後には笑顔で撫でてた。娘が誰かに何かを教えてる姿を初めて見た気がする。しかも自信満々に。
ムギと暮らし始めてから、娘の語彙が増えた。「寂しそう」「退屈そう」「嬉しそう」。表情を読む力がついたというか。人間相手でも同じで、幼稚園の先生に「最近、お友達の気持ちに気づいてあげられることが多いですね」って褒められた。ムギには言葉が通じないから、機嫌や体調を仕草で読み取るしかない。その訓練が、人間関係にも活きてるのかもしれない。
今朝も娘はムギと一緒に庭に出てた。少し肌寒い朝で、娘はパジャマの上にカーディガンを羽織っただけ。ムギが芝生の匂いを嗅いでる間、娘はしゃがんでムギの背中をぽんぽん叩いてた。リズミカルに、優しく。窓越しに見てたら、娘がふと空を見上げて、何か呟いた。聞こえなかったけど、たぶん「今日もいい天気だね」とか、そんな言葉だったんじゃないかな。
ペットを飼うって、世話が大変とか、お金がかかるとか、そういう話になりがちだけど。うちの場合は、娘がムギに育てられてる気がする。逆なんだよね、立場が。ムギは何も教えてないのに、娘は勝手に学んでる。命の重さとか、思いやりとか、そういう抽象的なことじゃなくて、もっと具体的な何か。毎日の小さな気づきの積み重ね。
いつまで一緒にいられるかはわからないけど…まあ、そういうことも含めて、娘は何かを学ぶんだろうな。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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