
五月の午後、縁側に差し込む光がやわらかく床をなでていた。その光の中で、うちの娘(五歳)とトイプードルの「ムギ」が、ぴったりと寄り添って眠っていた。娘の手がムギの背中に乗ったまま、ふたりとも静かに呼吸している。その光景を見ていたら、なぜか胸の奥がじんわりと温かくなった。
ペットとの生活を始めたのは、娘が三歳になった春のことだ。「犬を飼いたい」と言い出したのは娘ではなく、実は私のほうだった。子どもの頃、実家に柴犬がいて、その犬と一緒に過ごした夕暮れ時の記憶が、ふとした瞬間によみがえることがある。庭の土の匂い、草の感触、犬の体温。あの感覚をもう一度、今度は娘にも届けたいと思った。
ムギがやってきた日、娘は最初こわごわと手を伸ばした。ムギのほうも鼻をひくひくさせながら、少しずつ近づいていった。そのふれあいの最初の瞬間は、どちらもおそるおそるで、まるで初めて握手をする外国人同士みたいだった。けれどそれから数日もしないうちに、ふたりの距離はぐっと縮まった。
調査によると、ペットが子どもに与えた影響として「感受性が豊かになった」という回答が約半数に上り、「命の大切さを理解できるようになった」「動物が好きになった」という声も続いた。
それはデータの話だけれど、我が家でも確かにそれを感じる。娘はムギの様子を毎日観察するようになり、「今日はムギ、元気ないかも」などと言うようになった。五歳の子がそんなことを気にかけるとは、思っていなかった。
幼いころから動物を飼い、触れ合うことは、子どもたちに動物を思いやる心や周囲の人へ配慮する心を育む。
それが研究でも裏付けられているとわかったとき、あの縁側の光景の意味が少しだけ言葉になった気がした。
ある夕方、娘がムギに絵本を読んであげていた。タイトルは「こいぬのポポ」という架空のキャラクターが出てくる薄い絵本で、娘のお気に入りだ。ムギはとくに話を聞いているわけでもなく、途中でぽてっと横になってしまったのだが、娘はまったく気にせず読み続けた。そのちぐはぐな光景が、なんともいえず愛しかった(ムギよ、せめて最後まで起きていてくれ、と心の中でこっそりツッコんでしまったのは内緒だ)。
ペットは生き物であり、子どもの情操教育のために常に都合よく振る舞ってくれるとは限らない。親子でペットを思いやって関わりながら、ともに成長していくという意識が大切だ。
この言葉が、今の私にはとてもしっくりくる。ムギは娘のために存在しているわけではない。ムギはムギとして生きていて、娘はその隣にいる。それだけのことが、こんなにも豊かだ。
ペット飼育のきっかけは「かわいいから」だけでなく、「ともに暮らすため」へと変わってきた。ペットを取り巻く環境も変化し続けている。
そんな時代の流れを、日々の暮らしの中でじんわりと感じている。ペットとの生活は、もはや「飼う」という言葉では収まらなくなってきた。
朝、ムギが娘の部屋のドアをかりかりと引っかく音がする。娘が目を覚ます前から、ムギはもう待っている。その音を聞くたびに、私も自然と起き上がれる。不思議なことに、ムギがいてから、朝の空気がやさしくなった。光の色も、台所から漂うコーヒーの香りも、何かが少し変わった気がする。
子供とペットが育ちあう時間は、親の目にはとても静かに映る。でも、その静けさの中にこそ、大切なものが積み重なっていくのかもしれない。娘がいつか大人になったとき、あの縁側の午後の光を、ムギの温もりを、ふと思い出してくれたら。それだけで、十分だと思っている。
ペットとの生活は、子どもに何かを「教える」ためのものではなく、ただ一緒に生きることそのものだ。そしてそのふれあいの積み重ねが、いつのまにか子供の中に根を張っていく。それは、どんな言葉よりもやさしい教育なのかもしれない。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

コメント