ペットと育つ、子供の成長記録――ふれあいが教えてくれた、かけがえのないもの

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五月の朝は、やわらかい。カーテンの隙間からこぼれる光が、フローリングの上に細長い帯を作っていた。その光の中に、うちの犬のムギがいた。丸くなって眠っている。その隣に、娘の小さな手がそっと伸びていた。

娘が五歳になった春に、ムギはうちにやってきた。正確には、ムギという名前は娘がつけた。なぜムギなのかを聞いたら「ムギのいろだから」と言われ、確かに薄茶色のトイプードルだったので納得したのだが、それ以来わたしの中では「ムギ色」という言葉が妙に愛おしくなってしまった。

ペットとの生活が始まってすぐ、わたしは少し焦った。娘がムギの耳をぐいっと引っ張ったり、寝ているところに顔を押し付けたり。ムギは怒るでもなく、ただ困ったように目を細めていた。あのときのムギの表情を、今でも思い出す。「この子、大丈夫かな」とわたしが心配していたのは、ムギのことだったのか、娘のことだったのか、正直どちらでもあった。

ペットを迎えるタイミングには注意が必要で、子どもの理解力がある程度育ってからのほうが良いとも言われている。
それでも、うちはあのタイミングで正解だったと今は思う。なぜなら、娘はムギと一緒に「やさしくする」ということを覚えていったから。

季節が変わるごとに、娘の接し方も少しずつ変わっていった。夏には、ムギの水を自分で取り替えるようになった。秋には、散歩のリードを「持たせて」と言い出した。冬になると、ムギが寒そうにしていると自分のひざ掛けをかけてあげるようになった。子供の成長というのは、こんなに静かに、こんなに確実に起きるものなのか、とわたしは何度も驚いた。

あの日の夕方のことを、よく思い出す。十二月の夕暮れで、空がオレンジとグレーの間みたいな色をしていた。娘がムギの背中に頬をくっつけて、うとうとしていた。ムギの毛の温かさと、ほんのりとした獣の香りと、暖房の乾いた空気が混ざり合っていた。ああ、これが「ふれあい」というものなのだと、そのとき初めて言葉に追いついた気がした。

ペットという別の生き物に興味を持ち、一緒に遊んだり世話をしたりすることは、愛情や思いやりを学んだり、責任感や協調性を育んでくれる。
それは確かにそうで、でも実際に目の前で起きるそれは、もっとずっとゆっくりで、もっとずっと地味だ。ある日突然「成長した」と分かるのではなく、気づいたらそうなっていた、という感じに近い。

思い返せば、わたし自身も子どもの頃に近所の家の犬をよく触りに行っていた。名前はたしかコタロウ。柴犬で、いつもちょっと迷惑そうな顔をしていたけれど、しっぽだけはよく振ってくれた。あの感触、あの温もり、コタロウの鼻先が手のひらに当たったときのひんやりとした感覚は、三十年以上たった今も指先に残っている気がする。だから娘がムギに頬を寄せる姿を見るたびに、わたしの中の何かが静かに重なる。

ムギがうちに来て三年が経った今、娘は自分でムギのごはんの量を量れるようになった。ペットフードの袋を持ち上げようとして、思いのほか重くてよろめいたとき、「ちょっと手伝って」と言いながらもなんとか自分でやり遂げた。その横顔が、妙に頼もしかった。ついでに言うと、ごはんを入れたあと「おまちどおさま」とムギに言っていて、それはいったいどこで覚えたのかと少し笑ってしまった。

親子でペットを思いやって関わりながら、ともに成長していくという意識が大切だ。
この言葉の意味が、最近ようやく体に染み込んできた。ペットとの生活は、子供だけが成長するわけではない。わたし自身も、ムギのそばで何かを学んでいる。

娘が通う「はなのき保育園」では、毎年春に「いきもの発表会」というものがある。今年、娘はムギのことを発表した。「ムギはね、わたしがかなしいときそばにいてくれるんだよ」と言ったらしい。先生から教えてもらったとき、わたしはうまく言葉が出なかった。

ムギとの暮らしは、きっとこれからも続いていく。娘が小学生になっても、中学生になっても、ムギがそこにいる限り、この家にはあの五月の朝の光みたいな時間が流れていくだろう。ふれあいが育てるものは、思いやりだけじゃない。記憶だ。体の中に刻まれていく、やわらかくて確かな記憶だ。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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