
六月の終わり、梅雨の晴れ間がひょっこり顔を出した午後のことだった。縁側に腰を下ろした娘が、膝の上にうずくまったウサギの耳をそっと撫でていた。その仕草があまりにも静かで、あまりにも自然で、思わず声をかけるのをやめてしまった。
我が家にミルク——白い毛並みのドワーフウサギ——がやってきたのは、娘がまだ五歳のときだ。ペットショップではなく、知人の紹介で引き取ったその子は、最初の三日間、ケージの隅から一歩も動かなかった。娘は毎朝「おはよう」と声をかけ、毎晩「おやすみ」と言い続けた。返事はない。それでも彼女は続けた。子供というのは、不思議なほど根気強い。
ペットとの生活が始まると、日常のあちこちに小さな変化が生まれた。朝、ミルクのために牧草を補充すること。水の量を確認すること。ペレットの量を量ること。娘はそれらをノートに記録するようになった。小学二年生の字で、「きょうはにんじんをたべた」「みずをたくさんのんだ」と書かれたそのノートは、今も引き出しの奥にある。
ふれあいというのは、言葉を使わない対話だと思う。ミルクは抱っこが得意ではなく、娘も最初はうまく抱き方がわからなかった。何度かミルクに逃げられ、そのたびに娘は少し悲しそうな顔をした。でもある日、床に寝転んだまま静かにしていたら、ミルクが自分から近づいてきて、娘の腕のそばでうとうとし始めた。その瞬間の娘の表情を、私はたぶんずっと忘れない。声も出さず、ただ目だけが大きく開いて、それからゆっくりと細くなった。
子供の成長というのは、ドラマチックな瞬間よりも、こういう小さな積み重ねの中にあるのかもしれない。
ミルクが来て三年が経った頃、娘は自分でペレットの袋を調べ、「このブランド、添加物が多い」と言い出した。そして近所のペット用品店「グリーンポー」で別の商品を選んで買ってきた。小学四年生が成分表示を読んでいる。その光景に、正直少し驚いた。いつの間に、と思った。
においの話をすると、ウサギを飼っている家には独特の草の香りがある。牧草のにおいだ。チモシーという乾燥した草が常にケージに入っているので、部屋全体がほんのりと野原のような空気をまとっている。来客に「なんかいいにおい」と言われたことが何度かある。娘はそれがとても誇らしいらしく、「ミルクのにおいだよ」と胸を張って答えていた。
冬の夜、ストーブの前でミルクがひなたぼっこをしている横で、娘が宿題をしている。鉛筆の音と、ミルクが牧草を噛む小さな音が重なる。光はオレンジ色で、窓の外は暗くて、部屋の中だけが温かい。そういう夜が、何度もあった。
私自身、子供の頃に犬を飼っていた記憶がある。散歩の途中で犬がいきなり水たまりに突っ込んで、私の服が泥だらけになったこと。怒ったのに、犬が嬉しそうに尻尾を振るものだから、結局笑ってしまったこと。ペットとの時間には、そういう「思い通りにならないこと」がたくさんある。でもそれが、どこか人を育てるのだと思う。
娘も同じだ。ミルクが言うことを聞かない日も、体調を崩した日も、全部が経験になっている。命あるものを世話するということは、自分の都合だけでは動けないということだ。それを、言葉ではなくふれあいの中で学んでいく。
今年の春、娘は六年生になった。ミルクは七歳になり、ウサギとしては高齢の域に入った。動きがゆっくりになり、昼間は長く眠るようになった。娘はそれを静かに受け止めている。「ミルクが寝てるとき、起こしちゃダメだよね」と言いながら、そっとケージの前を離れる。
その後ろ姿が、もう子供ではないような気がして、少しだけ胸が痛くなる。でも同時に、誇らしくもある。ペットとの生活が、こんなふうに一人の人間を形づくっていく。それは静かで、地味で、でも確かなことだと思っている。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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