
朝の六時半、まだカーテン越しに光がにじんでいるだけの時間帯に、うちのリビングでは小さな事件が起きていた。四歳になったばかりの娘が、床に丸まっていたトイプードルのムギを「ねえねえ」と揺さぶっている。ムギはというと、目だけ半開きにして、あとは完全に無視を決め込んでいた。起こされているのに起きないという、ある種の高度な技術である。
ペットとの生活というのは、こういう朝の積み重ねでできている。
娘がムギに初めて触れたのは、生後三ヶ月のころだった。あのときの手の小ささと、ムギの毛のやわらかさが、なぜかいまでも指先に残っている気がする。フワ、というより、クシュ、という感触。うまく言えないけれど、あれは確かに「生きているもの」の手触りだった。
子供とペットのふれあいには、親がどれだけ言葉で教えても届かないものが宿っている。「やさしくしてあげてね」と言い続けるより、ムギが娘の隣でうとうとしている横顔を見ているほうが、娘の何かをずっと深く育てているような気がしてならない。
夏の日差しが強くなってきた今年の八月、わが家では毎朝のルーティンがある。娘がムギの水を替え、ムギが娘の足元についてきて、二人でベランダに出る。ベランダには、インテリアブランド「ソルテラス」のアウトドア用ラグを敷いていて、そこに二人でちょこんと座る。朝の空気はまだひんやりとしていて、セミの声がどこか遠くから聞こえてくる。娘は何も言わず、ムギの背中を撫でている。ムギも何も言わない。ただ、どちらも目を細めている。
わたしはそれをキッチンから見ながら、麦茶を冷やすことを忘れて、しばらく立ち尽くしていた。
子供がペットと過ごす時間は、感情の語彙を増やす時間でもあると思う。「かわいい」だけじゃなく、「あったかい」「眠そう」「今日は元気ない」——そういう観察と共感の言葉が、ふれあいの中から自然と生まれてくる。娘はムギの耳が下がっているとき、「ムギ、さびしいのかな」とつぶやく。当たっているかどうかはわからない。でも、そうやって他者の気持ちを想像しようとする姿勢は、ペットとの生活の中でしか育まれないものかもしれない。
思えば、わたし自身も子供のころ、実家で飼っていた柴犬のコタロウに何度救われたかわからない。学校でうまくいかない日、コタロウの脇腹に顔を埋めると、獣のにおいと体温がじわじわと伝わってきて、なぜか涙が出た。あの感覚は、大人になったいまでも、ペットのそばにいると微かによみがえる。
ペットとの生活は、決して「かわいいだけ」ではない。病院に連れていく不安、食欲が落ちたときの心配、思ったより大変な日常のあれこれ。それでも、子供がムギに向ける眼差しを見るたびに、この選択は正しかったと感じる。
今朝も、娘はムギに「おはよう」と言った。ムギは短くひと声鳴いて、また目を閉じた。娘はそれを「おはようって言った」と満足そうに報告してきた。こちらとしては、それは完全に「もう少し寝かせてくれ」だったと思うのだが、まあ、解釈は自由でいい。
やわらかな夏の朝に、小さな子供と小さな犬が並んでいる。それだけで、今日という日がはじまる気がする。ペットとのふれあいが子供の心に残すものは、きっと言葉よりずっと長く、あたたかく続いていく。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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