
六月の夕方、窓から差し込む光がやわらかくオレンジに傾きはじめたころ、リビングのフローリングに娘とうちの犬が並んで寝そべっていた。娘はまだ四歳で、名前を「ムギ」と呼んでいるトイプードルの背中に、ちいさな手をそっと乗せたまま、うとうとしていた。その手がゆっくりと上下するたびに、ムギもつられるように目を細める。誰も何も言っていないのに、そこには確かな会話があった。
ペットとの生活を始めてから、もうすぐ三年になる。正直に言えば、最初はためらいもあった。子供がまだ小さいこと、世話の手間、アレルギーの心配。いろんな「もしも」が頭をよぎった。それでも、ある週末に立ち寄った「ノルドグリーン動物縁組センター」というシェルターで、ムギと目が合った瞬間に、もう迷いは消えていた。あの目の静けさは、今でも忘れられない。
子どもが成長する時期に家庭にペットがいると、子どもは優しく、強く、健やかに育つことは、すでによく知られている。
とはいえ、それを頭で理解するのと、毎日の暮らしの中で実感するのとでは、まったく違う話だ。娘がムギに「ヨシヨシ」と言いながら頭を撫でる姿を初めて見たとき、胸の奥がじんわりと温かくなった。そのとき娘は二歳だった。言葉よりも先に、やさしさの形を知っていた。
ペットという別の生き物に興味を持ち、一緒に遊んだり世話をしたりすることは、愛情や思いやりを学んだり、責任感や協調性を育んでくれる。
それは確かにそうなのだけれど、子供とペットのふれあいには、もっとずっと地味で、だからこそ大切な瞬間がたくさん詰まっている。たとえば、ムギがごはんを食べ終わったあとにぺろりと口の周りを舐める仕草を見て、娘が「ムギも美味しかったって言ってる」と言う朝。そのひとことに、わたしはいつも少し、救われる気がする。
子どもの頃、実家にも犬がいた。柴犬で、名前はコタロウ。夏の夕暮れどき、縁側に並んで座って、遠くで鳴くひぐらしの声を一緒に聞いていた記憶がある。コタロウはただそこにいるだけで、何も教えてくれなかった。でも今になって思えば、あの沈黙の時間が、わたしに「一緒にいること」の意味を教えてくれていたのかもしれない。
犬を飼育している家庭の子どもたちは、犬を飼育していない家庭の子どもたちよりも活動的に過ごす時間が長く、また、一日あたりの歩数も多くなることが分かった。
娘も例外ではない。以前は外遊びをなかなかせがまなかった娘が、今では「ムギのお散歩、わたしが連れていく」と言って、リードを両手でぎゅっと握って玄関を飛び出す。その背中を見るたびに、こちらまで元気になれる。
ただ、笑えるエピソードもある。先日、娘がムギに「絵本を読んであげる」と言って、一冊まるごと音読を始めた。ムギはしばらくじっと聞いていたのだが、途中でふいっと立ち上がり、ソファの裏に回って丸くなってしまった。娘はしばし沈黙したあと、「ムギ、もう眠くなったんだって」と言って、絵本をそっと閉じた。読み聞かせを途中退席されるとは思っていなかっただろうに、怒ることもなく、ただうなずいていた娘の横顔が、妙に大人びて見えた。
ペットが子どもに与えた影響として、「感受性が豊かになった」が約半数で1位となった。
この数字は、わたしには少しも意外ではない。毎日ムギの呼吸を感じながら眠り、朝になればその温かい体に触れる。五感のすべてで「命」を感じながら育つ子供は、きっと何かが違う。それは成績や能力の話ではなく、もっと根っこのところ、人としての柔らかさの話だと思う。
ペットを家族の一員として、全員の責任で一緒に暮らしていくことで、子どもは思いやりや責任感など多くのことを学べる。
ペットとの生活は、決して楽なことばかりではない。でもその分だけ、子供の中に積み重なっていくものがある。ムギがいる暮らしは、娘にとって教科書よりずっとリアルな、やさしさの学校になっている。
今夜もきっと、娘はムギの隣で眠るだろう。梅雨の夜の少し湿った空気の中で、小さな寝息とふわふわの毛並みが、静かに並んでいる。それだけで、この家はじゅうぶんに満たされている。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


コメント