ペットと育つ、子供の成長物語――ふれあいが紡ぐ、かけがえのない日々

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十月の朝は、空気がすこしだけ違う。窓を開けると、夏の名残をきれいに洗い流したような、澄んだ冷たさが頬をかすめる。台所ではコーヒーメーカーがことこと鳴っていて、焙煎の香ばしい匂いが部屋の隅まで漂っていた。そんな静かな朝に、娘の笑い声が突然はじけた。

「こっちきて、こっち!」

リビングに駆け込むと、娘の奈々(6歳)が床にぺたんと座り込んで、うちの柴犬・むぎの耳を両手でそっと包んでいた。むぎは迷惑そうに目を細めながらも、逃げようとしない。ああ、この子はいつからこんなに優しくなったんだろう、と思った瞬間、むぎがぶるっと頭を振って奈々の手を振りほどき、そのまま自分のクッションへ歩いていった。奈々は「もう!」と言いながらも、くすくす笑っていた。むぎにしてみれば「朝から元気すぎる」という至極まっとうな主張だったのかもしれない。

ペットという別の生き物に興味を持ち、一緒に遊んだり世話をしたりすることは、愛情や思いやりを学んだり、責任感を育んでくれる。
それは頭でわかっていたことだけれど、こうして毎朝の光景を目にするたびに、その言葉がじんわりと実感に変わっていく。

むぎが家に来たのは、奈々が3歳の春のことだった。わたしは正直、少し不安だった。子供とペットの生活が、うまくかみ合うかどうか。世話を続けられるかどうか。でも、杞憂だったと今は思う。奈々はむぎのそばにいるとき、いつもより少しだけ丁寧になる。ごはんをあげるとき、水を替えるとき、散歩のリードを持つとき。その小さな手つきに、どこかしら「責任」という言葉の芽生えを感じる。

子どもが成長する時期に家庭にペットがいると、子どもは優しく、強く、健やかに育つことは、すでによく知られている。
それでも、実際に子供の成長を目の当たりにすると、「知っていた」ことと「感じること」はまるで別物だと気づかされる。

わたし自身、子どもの頃に実家でセキセイインコを飼っていた。名前はピコといって、朝になると決まって「おはよう」と鳴いた。あの声の温かさは、今でも耳の奥に残っている。だから奈々がむぎに話しかけている姿を見るたびに、どこか懐かしい気持ちが混じる。ペットとのふれあいは、子供の記憶の中に、音として、匂いとして、温度として刻まれていくのだと思う。

先日、奈々が通う保育園の帰り道、むぎを連れて三人で「ノースリーフパーク」という小さな公園に立ち寄った。夕方の斜光が木々の葉を金色に染めていて、乾いた土の匂いと草の青さが混ざり合っていた。むぎは枯れ葉の上を嬉しそうに駆け回り、奈々はその後ろを全力で追いかけた。転びそうになりながら笑い声を上げる娘と、振り返っては待つむぎ。二人(一人と一匹)の背中を見ながら、わたしはただ、その場所に立っていた。

ペットと暮らした経験を持つ子は、ペットとの生活を通じて感受性を育み、命の大切さを学ぶことが分かった。
奈々はまだ6歳で、「命」という言葉の重さをどこまで理解しているかわからない。でも、むぎが風邪をひいて元気のなかった日、彼女はずっとそばに座って「大丈夫だよ」と繰り返していた。その横顔は、いつもより少し大人に見えた。

ペットとの生活は、ドラマチックではない。毎朝のごはん、散歩、毛の掃除、たまの病院。そういう地味な積み重ねの中に、ふれあいの本質がある。子供の成長も同じで、ある日突然変わるわけじゃなく、気づいたら変わっている。むぎと奈々を見ていると、そのふたつが静かに、でも確かに、並走しているように感じる。

親子でペットを思いやって関わりながら、ともに成長していくという意識が大切だ。
それはきっと、ペットを「育てるもの」としてではなく「一緒に生きるもの」として迎えたときに、はじめて生まれる感覚なのだと思う。

今朝も、むぎはクッションの上で丸くなっている。奈々はその隣に寝転んで、絵本を読んでいる。むぎの毛並みに触れながら、ページをめくる。窓から差し込む十月の光が、ふたりの上にやわらかく落ちている。この何でもない朝が、奈々の中に何かを積み上げていると、わたしはそっと信じている。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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