
助手席のクッションに顎を乗せて、コタローはずっと窓の外を見ていた。秋の朝、午前七時。空はまだどこか眠たそうな薄い青で、高速道路の両脇には稲穂の刈られた田んぼが続いていた。エンジンの低い振動と、タイヤが路面を踏む音。その単調なリズムが、なんとなく心地よかった。
ペットとの生活を始めてから、旅のかたちが変わった。行き先を決めるとき、まず考えるのは「コタローが過ごしやすいか」ということだ。ホテルの口コミよりも、ドッグランの有無や、周辺を散歩できるかどうかを先に調べる。それが面倒かといえば、全くそんなことはない。むしろ、旅の解像度が上がったような気さえする。
今回の目的地は、長野県の山あいにある小さな温泉地、「奥霧峰(おくきりみね)」だ。自宅のある横浜からだと、高速を使っても四時間以上かかる。犬連れの長距離移動では、注意することがいくつかある。出発前にトイレを済ませておくこと、朝ごはんは車酔い防止のために控えること、そして
約二時間ごとを目安に休憩を入れること
。これはもう、体に染みついた習慣になっていた。
最初の休憩は、談合坂サービスエリアで取った。駐車場に車を止めると、コタローはすぐにそわそわし始めた。リードをつけてドアを開けた瞬間、冷たい山の空気がどっと流れ込んでくる。十月の朝の風は、少し湿っていて、落ち葉と土の匂いが混じっていた。コタローは鼻をひくひくさせながら、芝生の上をぐるぐると歩き回る。その後ろ姿を眺めながら、缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるかった。買ってから三十分は経っていたのだろう、すっかり温度が抜けていた。それでも、なんとなく捨てられなくて、もう一口飲んだ。
車内で犬をフリーにしてしまうと、ケガのリスクが高まる。
コタローには、後部座席にクレートを固定して乗ってもらっている。最初はなかなか慣れなくて、出発するたびにキュンキュンと鳴いていたのを覚えている。今は違う。クレートの中に、いつも使っているブランケット——アウトドアブランド「モリノキャンバス」の薄手のもの——を敷いてやると、くるりと一回転してからすとんと横になる。その動作があまりにも毎回同じで、思わず笑ってしまう。
運転中はペットに優しい音楽を流すと、安心できる空間を保てる。
今日はずっと、低いボリュームでジャズをかけていた。トランペットの音が車内に漂って、コタローが時々耳をぴくりと動かす。それだけで、なんだか旅をしている実感が増した。
Instagramなどで「#犬と旅行」といった投稿が年々増加しており、愛犬との思い出を共有したいという動機が、具体的な旅行行動に強く結びついている。
実際、サービスエリアで犬を連れた家族を何組も見かけた。みんな同じように、少し疲れた顔をしながら、でも犬が走り回る姿を見てにやにやしている。ペットとの生活とは、そういうものだと思う。疲れと幸せが、いつも隣り合わせにある。
奥霧峰に着いたのは、昼過ぎだった。宿の駐車場に車を止めると、コタローはクレートの中でむくりと起き上がり、こちらをじっと見た。「着いたよ」と声をかけると、尻尾がゆっくり、でも確かに揺れた。その小さな揺れが、長い道のりの答えみたいに見えた。
宿の縁側から見える山は、もう半分以上が赤と黄色に染まっていた。コタローは縁側の端に座って、山を眺めている。風が吹くたびに耳が揺れる。その横顔が、妙に落ち着いていて、こちらまで静かな気持ちになった。
長距離移動の疲れは、こういう瞬間にすっと消える。次はどこへ行こうか、と考えながら、温かいお茶を一口飲んだ。今度は、ちゃんと熱かった。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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