
六月の朝は、やわらかい。カーテンの隙間から差し込む光が、フローリングの上にうすく伸びて、その光の帯の中に、茶色い毛のかたまりがひとつ、丸まっていた。我が家のトイプードル、むぎのいつもの定位置だ。そしてその隣に、パジャマ姿の娘・ほのかが、やはり丸まって眠っていた。五歳の子どもと犬が、まるで示し合わせたように同じポーズで並んでいる光景は、笑いをこらえるのが難しかった。
ペットとの生活を始めたのは、ほのかが三歳になった春のことだった。「犬がほしい」と言い始めたのは本人だったけれど、正直なところ、あのころの私には半信半疑だった。世話ができるのか。怖がらないか。でも、むぎがうちにやってきた日、ほのかはケージの前にしゃがみこんで、ひたすらじっと待ち続けた。呼んでも動かなかった。それが、ふたりの最初のふれあいだった。
むぎは最初、ほのかを少し怖がっていた。子どもの動きは読めないから、仕方ない。でも、ほのかの方が根気強かった。無理に触ろうとせず、ただ近くに座って、小声で話しかけていた。「むぎちゃん、こわくないよ」。その言葉を、私は今でも覚えている。三歳の子どもがそんなことを言えるとは思っていなかった。
季節が変わるごとに、ふたりの関係も変わっていった。夏の終わり、汗ばんだ手でむぎの耳をなでながら、ほのかは「やわらかい」と言った。あの感触——絹糸を束ねたような、少し湿った毛の感触——は、子どもの五感に何かを刻んでいくのだと思う。においも、音も、温度も。むぎのそばにいると、ほのかは不思議と落ち着く。
子どもの成長というのは、目に見えるものと見えないものがある。身長が伸びた、字が書けるようになった、そういうことは記録できる。でも、むぎと過ごした時間がほのかに与えたものは、もう少し形のないものだ。たとえば、相手の気持ちを想像する力。むぎが震えていたら「怖いのかな」と考える。むぎが鳴いたら「何かほしいのかな」と立ち止まる。それは誰かに教わったわけではなく、ふれあいの中から自然に育まれてきたものだった。
私が子どものころ、実家には猫がいた。名前はきなこ。縁側でうとうとしている姿が好きで、よく隣に座っていた。あのころの記憶は断片的だけれど、きなこのぬくもりだけははっきり残っている。ほのかにとってのむぎも、きっとそういう存在になるのだと思う。言葉にならない記憶として、体のどこかに残るもの。
ペットとの生活は、子どもに命の重さを教えるとよく言われる。それはそうかもしれない。でも私が感じているのは、もっと日常的なことだ。むぎが走り回る音、ごはんを食べるときの小さな咀嚼音、夜になると決まってほのかの足元に来て丸くなる習慣。そういう些細な繰り返しが、この家の空気をつくっている。
先日、近所のペットショップ「ハナモリ動物雑貨店」で、ほのかがむぎ用のおやつを自分のお小遣いで買った。百円玉をふたつ握りしめて、棚の前でずいぶん悩んでいた。どれがむぎのすきかな、と。その横顔を見ながら、ああ、この子はもう誰かのことを考えられるようになったのだと、静かに思った。
ふれあいは、子どもを育てる。むぎも、この家で育っている。そしてたぶん、私も。六月の朝の光の中で、ふたつのかたまりがまだ眠っている。今日も、ここから始まる。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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