
出発は、朝の六時半だった。
まだ空が白みかけたころ、ガレージのシャッターを開けると、十月の冷たい空気がすっと入ってきた。息が少し白くなる。隣では、ラブラドールのムクが鼻をひくひくさせながら、後部座席に向かって体をぐいぐいと押しつけていた。ペットとの生活を始めて五年が経つが、こういう朝の興奮だけは、いつまでも変わらない。
クレートをシートベルトで固定して、水のボトルを助手席の足元に置いて、それから出発前にトイレを済ませたムクを乗せる。
車に乗る前に排泄をさせておくのは、長距離移動の基本中の基本だ。
朝ごはんも、この日は抜いている。
普段通りご飯を与えてから車に乗ると、車酔いや嘔吐につながることがあるからだ。
はじめてこれを知ったとき、少しかわいそうだと思った。でも、ムクが車内でぐったりするよりずっといい。
高速に乗ってしばらくすると、後部座席から小さなため息が聞こえた。ため息というか、鼻息というか。ちらりとミラーを見ると、ムクが顎をクレートの縁に乗せて、目だけをこちらに向けていた。なんとも言えない、あの目。「まだ着かないの?」と言っているような、ただ眠いだけのような。正直、どちらかわからない。
犬との車旅では、1〜2時間おきに休憩をとるのが基本とされている。
最初のサービスエリアは、出発から一時間半後に立ち寄った。「ドッグランあり」の看板を見つけたとき、ムクのしっぽが一瞬で高速回転に切り替わった。あれは毎回おかしい。体全体が左右に揺れているのに、本人はいたって真剣な顔をしている。
パーキングエリアやサービスエリアでのこまめな給水やトイレタイムは、長距離移動では特に大切だ。
リードをつけてからドアを開ける。これも絶対に守っている習慣で、
慣れない場所でパニックになり、走り出してしまうこともあるからだ。
以前、友人の犬が一瞬だけフリーになって、駐車場を全力疾走したのを目撃した。あれはひやりとした。笑えない話だった。
ペットとの生活において、旅というのは特別な時間だと思う。
2026年、ペットを連れた旅行の予約は前年比260%増という数字が出るほど、愛犬との旅は今や大きなトレンドになっている。
それだけ多くの人が、同じようにサービスエリアでリードを握りしめ、同じように助手席に水筒を置いているのだと思うと、なんだか少しあたたかい気持ちになる。
午後になると、陽の角度が変わって、車内に斜めの光が差し込んできた。ムクはいつの間にかクレートの中で丸くなっていて、規則正しい寝息が聞こえてくる。ラジオから流れる音楽と、タイヤが路面を踏む低い音と、その寝息が混ざり合って、不思議と静かな時間になった。
気温の上がる季節には熱中症にも注意が必要で、犬に合わせてやや涼しめの温度にエアコンを設定することが大切だ。
十月とはいえ、日中の車内は思ったより温度が上がる。こまめに温度計を確認しながら走るのが、今の自分のスタイルになっている。
目的地は、長野の山あいにある小さな宿「ノースウッズロッジ」。ペット同伴可能で、部屋の前に小さな芝生のスペースがある。予約したのは三ヶ月前で、そのときからずっと楽しみにしていた。
車移動で重要なのは、犬が落ち着いて過ごせる空間を確保することだ。振動を和らげるクッションや、外の景色が気になる場合の目隠しなど、事前の準備がものをいう。
ムクはわりと車が得意な方だが、それでも最初からそうだったわけではない。子犬のころは、エンジン音だけで震えていた。毎週末、近所をぐるりと一周するだけのドライブを繰り返して、少しずつ慣らしていった。あの地道な積み重ねが、今の長距離移動につながっている。
夕方近く、ようやく宿の看板が見えてきたとき、ムクがむくりと起き上がった。窓の外の山の匂いを嗅いでいるのか、鼻先を微妙に動かしている。松の香りと、土の湿った匂い。窓を少しだけ開けると、冷たい秋の空気が車内に流れ込んできた。
ペットとの長距離移動には、注意することがたくさんある。でも、それを一つひとつ丁寧にこなしていくうちに、旅そのものが豊かになっていく気がする。準備の手間が、愛情の形になっていく、とでもいうのだろうか。
エンジンを切った瞬間、ムクがこちらを見た。しっぽが、また高速回転を始めていた。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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