
八月の朝はやけに早い。カーテンの隙間から差し込む光が床に白い帯を描くころ、うちの家族はもうとっくに起きている。正確に言えば、起こされている。
麦茶色の毛並みをした柴犬の「ムギ」が、リビングとキッチンの境目あたりで爪を立ててカシャカシャと音を鳴らす。あの音が聞こえると、誰かが必ず「はいはい」と言いながら布団を出る。今朝はわたしだった。
個性的なわんこたちと暮らすバタバタした日常は忙しいけど楽しくて素晴らしい
、とどこかのブログで読んだことがある。まさにその通りだと思う。ムギが来てから、うちの家族の朝は確実に変わった。良い意味で、少しだけ慌ただしく、そして不思議と豊かになった。
ペットとの生活は、計画通りにはいかない。
散歩から帰ると、玄関先でムギが全身でシャカシャカと体を振る。水滴が飛ぶ。壁に当たる。子どもたちは「わあ」と言いながら笑う。妻は苦笑いしながらタオルを持ってくる。わたしはリードを外しながら、なんとなく申し訳ない顔をするムギを見て、思わず頬が緩む。先週など、ムギが散歩の帰りにちょうど玄関のドアを開けた瞬間に体を振り始めて、わたしの顔面に直撃した。ムギは何事もなかったようにしゃんとしていた。
子どものころ、実家で飼っていたのは金魚だった。水槽のそばに毎日座って、ただ眺めていた。あの静けさとは全然違う。ムギといると、家の中がずっと動いている。音がある。温度がある。においがある。夏の夕方、ムギが縁側で丸まって眠るとき、毛の中にほんのり土の香りが混じっている。そういう具体的な感触が、家族の記憶になっていく。
「ペットを家族の一員(=主役)として描く」という考え方
が、いまペットとの生活を語るうえで広がっている。うちはそれを意識したわけではないけれど、気づけばムギはすっかり家族の中心にいる。食卓の話題も、週末の予定も、ムギを軸に動いている。子どもたちは学校から帰るとまずムギに話しかける。「今日ね、給食がカレーだったよ」と。ムギは当然何もわからないのだが、しっぽを振って聞いている。それだけで子どもは満足そうだ。
家族みんなで仲良しでいられる理由のひとつに、ムギの存在があると思う。言い合いになりそうなとき、ムギが間に入ってくることがある。空気を読んでいるのか、ただ甘えたいだけなのか。でも結果として、誰かが笑う。笑うと、少しだけ力が抜ける。
インテリアブランド「ノルテハウス」のカタログで、犬と暮らすリビングの特集を見たことがある。木の床、低めのソファ、洗いやすいラグ。あんな空間にしたい、とぼんやり思った。現実のわが家は、ムギのおもちゃが床に散らばり、リードが椅子の背にかかっている。でもそれがいまの家族の形だ。
ペットとの暮らしにおいて、テクノロジーの進化は目覚ましいものがある
という話もよく耳にする。スマート首輪や健康管理アプリ。便利な時代になったと思う。でも、ムギが夜中にそっと足元に寄ってきて、じっとこちらを見上げてくるあの瞬間は、どんな技術にも代えられない。温かくて、少し重くて、確かにそこにある。
ペットとの生活は、家族を少しずつ変える。急にではなく、毎日の小さな積み重ねの中で、じわじわと。気づいたときには、ムギなしの朝が想像できなくなっていた。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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