
朝の七時、まだ空気がひんやりと残る九月の早朝に、私たちは出発した。助手席には三歳になるトイプードルのムギが、お気に入りの薄茶色の毛布にくるまって座っている。正確には「座っている」というより、毛布の上でくるくると三回転してから、ようやく落ち着いた、という感じだ。毎回そうなのだが、毎回なぜか少し笑ってしまう。
愛犬を家族の一員と捉える価値観が広がり、「旅行にも一緒に連れて行きたい」というニーズはここ数年で急速に高まっている。
そのトレンドは数字にも表れていて、
ペット同伴旅行の予約は前年比260%増と大幅に急増している
という。私もその波に乗った一人、というわけだ。ただ正直なところ、統計がどうとか関係なく、ムギを置いて旅に出る気には最初からなれなかった。
ペットとの生活を始めて三年。最初の頃は車に乗せるだけで震えていたムギが、今では窓の外を眺めながら耳をぴんと立てている。その成長が、なんとも誇らしい。
今回の目的地は、長野の山あいにある小さな温泉地だ。自宅のある静岡から片道およそ四時間半。長距離移動になるため、出発前の準備はいつも以上に念入りにした。
食事は車に乗る二〜三時間前に済ませ、乗車前には必ずトイレを済ませておく。
これは鉄則だ。一度、準備を怠って高速道路の真ん中でムギがそわそわし始めたときの焦りを、今でも忘れられない。次のパーキングまでの十数分が、あんなに長く感じたことはなかった。
愛犬と車で旅行する場合、一時間半から二時間に一度は休憩をとるのがおすすめだ。犬は長時間の車移動に負担を感じるため、休憩なしで二時間以上走るのは避けたい。
今回も、諏訪湖サービスエリアで一度車を停めた。ムギをリードにつないで外へ出ると、九月の高原の空気が肌にやわらかく触れた。標高が上がったせいか、静岡とは明らかに違う、少しだけ薄い、澄んだ冷たさがある。ムギは鼻をひくひくさせながら、芝生のにおいを全力で確認していた。犬にとって、旅先の地面はきっと情報の宝庫なのだろう。
車内の温度はエアコンを使って二十五度前後に保ち、穏やかな音楽を流して、お気に入りの毛布やおもちゃを側においてあげると、安心感につながる。
私がいつも流しているのは、「ノルテ・ウィンズ」というインストゥルメンタルのプレイリストで、ゆったりとしたギターの音が車内に広がると、ムギの目がだんだんと細くなっていく。うとうとしながらも、信号で止まるたびにぱっと顔を上げてこちらを確認する。その仕草が、なんだかかわいくて、なんだか少し切ない。
注意することは、温度管理だけではない。
遠い土地で犬の行方がわからなくなったらドライブどころではない。犬の首輪に迷子札をつけておくと、不測の事態に備えられる。
ムギの首輪には、私の携帯番号を刻んだ小さなシルバーのプレートがついている。旅に出る前、必ず文字が読めるか指でなぞって確認する。それが、いつの間にか出発前の儀式になっていた。
子どもの頃、家族で車旅行に出かけるたびに、後部座席で膝を抱えて窓の外を眺めていた。高速道路のガードレールが流れていくのを、ぼんやり目で追いながら、どこか遠くへ行ける気がして、胸がざわざわしていたのを覚えている。あの感覚と、今ムギと並んで走っているこの感覚が、どこかで重なっている気がする。
目的地に着いたのは、昼過ぎだった。山の稜線が青く霞んで見えて、宿の前には小さな川が流れていた。水音が思ったよりずっと近くて、ムギがぴたりと足を止めた。耳を澄ますように、頭をかしげて。
飼い主たちは、ペットとの旅行の様子を写真や動画で日常的に発信しており、「ペットと一緒に泊まれる」「快適に過ごせる」といった情報が広がることで、同じようなニーズを持つ潜在顧客に自然に届く。
その気持ちは、よくわかる。この景色を、誰かと共有したくなるのは自然なことだ。ただ私は、まずスマートフォンをしまって、ムギの頭をそっと撫でた。川の音と、風と、ムギの温かい体温だけが、そこにあった。
ペットとの生活は、日常を少しだけ丁寧にさせてくれる。長距離移動も、注意することを一つひとつ確認しながら準備を重ねるうちに、旅そのものへの期待が膨らんでいく。ムギがいるから、休憩を惜しまない。ムギがいるから、急がない。それが、悪くない旅のかたちだと、今は思っている。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

コメント