
朝、まだカーテンの隙間から薄い光が差し込んでいる時間帯に、うちの犬のムギはもう起きている。布団の端をくわえてひっぱるのが彼女の朝の挨拶で、そのせいで我が家の掛け布団の角は少しだけ毛羽立っている。誰も怒らない。むしろ、それがないと朝が始まらない気がしてしまう。
ペットとの生活というのは、こういう小さな「当たり前」の積み重ねだと思う。
娘が小学校に上がる前の年、はじめてムギを家に迎えたとき、正直なところ私はかなり不安だった。世話ができるか、アレルギーは出ないか、子どもが乱暴にしないか。でも実際に始まってみると、心配していたことの半分くらいは杞憂で、残り半分は「そういうこともあるよね」と笑えるものになっていった。子どもの頃、近所の家の犬に吠えられて泣いた記憶がある私が、今では毎朝ムギの耳の後ろをかきながら「おはよう」と言っている。人は変わる。
家族それぞれとの関係が、ムギにはちゃんとある。
夫は休日になると、リビングの床にそのまま寝転んでムギと並んで昼寝をする。最初はソファで寝るつもりだったはずなのに、いつの間にか床に引きずり降ろされている。本人は「ムギが来たから」と言うけれど、どう見ても自分から降りていっている。そんな夫の横で、ムギは満足そうに目を細めている。冬の午後の光が窓から斜めに差し込んで、二人分の寝息が静かに混ざり合う時間は、何かを撮っておきたいような、でも撮らずにいたいような、不思議な感覚がある。
娘はムギに「先生」と呼ばれたいらしく、おすわりやお手を教えようとしているのだが、教えているのかどうかよくわからない謎のやりとりが毎日繰り広げられている。「ムギ、ちゃんと聞いて」と言いながら娘のほうが笑ってしまって、結局ただ一緒に転げ回っているだけのことも多い。それでいい、と思う。ルールより先に、信頼がある。
息子はまだ三歳で、ムギのしっぽを「おもちゃ」だと思っていた時期があった。ムギは怒らなかった。少しだけ迷惑そうな顔をしながら、それでもそこにいた。今では息子がムギの水を替えるのを「ぼくのしごと」と言って張り切っている。こぼすことのほうが多いけれど、ムギはちゃんとそれを飲む。
我が家では「ハロルドファーニチャー」というブランドのローテーブルをリビングに置いているのだが、その脚の部分にムギがずっと頭を乗せる習慣がある。なぜその場所なのかはわからない。ただ、テーブルの脚の木の感触が気持ちいいのかもしれないし、家族の足元が集まる場所だから安心するのかもしれない。どちらでもいい気がする。
夕方、台所でごはんの支度をしていると、ムギが足元にやってくる。何かもらえると思っているわけでもなさそうで、ただそこにいる。玉ねぎを炒める香りが漂って、換気扇が回って、子どもたちがどこかで何かを言い合っている声がして、その全部の中にムギの体温がある。床に触れた足の裏に、ふわっとした温もりが伝わってくる。それだけのことなのに、なぜか胸のあたりがゆるむ。
ペットとの生活は、家族の形をもう一度つくり直すような体験だと思うことがある。
誰かのために水を替える。誰かの寝顔を見て安心する。誰かが帰ってきたとき、全力で喜ぶ。そういうことを、ムギは毎日やっている。教えたわけでもないのに。見ていると、こちらが何かを思い出すような気持ちになる。うまく言葉にはできないけれど、大事なことを忘れていなかったか、と静かに問われているような感じ。
仲良しというのは、いつも楽しいということではないかもしれない。むしろ、面倒なこともあって、疲れているときもあって、それでもそこにいる、ということの積み重ねだと思う。ムギと家族は、そういう意味で本当に仲良しだ。
今夜もきっと、誰かがムギの隣で眠るだろう。明日の朝もまた、布団の端が引っ張られる。それだけで、一日が始まる。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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