
夜明け前の五時半、まだ空が藍色をしていた。カーナビに目的地をセットして、助手席のクレートの中でくるくると回り続けるムギ(ミックス犬、三歳)を横目に、ゆっくりとエンジンをかけた。ペットとの生活を始めてから、旅の準備リストがずいぶん長くなった。水、フード、ウンチ袋、ウェットティッシュ、狂犬病予防接種証明書のコピー。最後の一枚を財布に差し込んだとき、ふと気づいた。リードを忘れかけていた。危ない、危ない。
ドッグランやワンちゃん用の施設を利用するときには、1年以内の狂犬病予防接種証明書と混合ワクチン接種証明書が必要不可欠で、現地の病院やお店では手に入れることができないもの
だと、以前に痛い目を見てから学んだ。今回は念入りに確認した。それでもリードはあと一歩で忘れるところだった。小さな失敗未遂に苦笑いしながら、車を走らせる。
高速に乗ると、ムギはしばらく鼻をひくひくさせて、それから静かになった。
犬のクルマ酔いが起こる原因は、振動、車内の匂い、クルマに関わる過去の嫌な記憶による不安
だと聞いたことがある。ムギは比較的車に慣れているほうだけれど、長距離移動となると話は別だ。出発の三時間前には食事を済ませ、朝の散歩もしっかり歩かせた。準備が旅の半分、と自分に言い聞かせながら。
ペット連れのドライブは、人間の大人だけで移動する時の「1.5倍の時間がかかる」と想定してスケジュールを組む
べきだと知ってから、余裕を持って家を出るようになった。今日の目的地は、長野県の山あいにある「ハルカゼ高原」。片道およそ四時間。人間だけなら三時間もかからない道のりだ。
最初の休憩は、出発から一時間半ほどで立ち寄ったサービスエリア。
最近の高速道路のサービスエリアやパーキングエリアには、無料で使えるドッグランが併設されている場所が増えている
のが本当にありがたい。ムギをリードにつないでドッグランに入れると、一目散に駆け出した。朝の光がまだ斜めで、芝の露がきらきらしていた。靴底に伝わるひんやりとした湿り気。ムギの足音がぱたぱたと草を踏む音。それだけで、来てよかったと思う。
ワンちゃんの状態にもよるが、1〜2時間ごとに休憩を挟んで外を散歩させたりおトイレをさせたりする
ことが大切だと実感している。以前、一度だけ「もう少しで着くから」と休憩を飛ばしたことがあった。ムギは車内で落ち着きをなくし、クレートの中でくるくる回り続けた。あれは反省した。犬にとって、移動そのものが大きな負荷なのだ。
犬の平熱は38℃と人よりも高く、暑さにとても弱い。特に夏場の場合は室温が上がりやすいので、人間が少し肌寒いくらいに下げてあげる
のが理想的だ。五月の車内はまだ穏やかだけれど、日差しが窓から差し込むと温度は思った以上に上がる。サンシェードを後部窓に貼るのも、長距離移動では欠かせない習慣になっていた。
二度目の休憩で立ち寄った道の駅で、ムギが珍しく私の膝に前足をかけてきた。見上げる顔が、なんとなく「まだ着かないの」と言っているように見えた。心の中で「もうちょっとだよ」とつぶやいて、背中を撫でる。毛の感触がふわりと温かい。
近年、ペットは単なる愛玩動物ではなく、”家族”として共に暮らす存在になっている。特に犬の場合、休日は一緒に過ごすのが当たり前という家庭も増え
てきた。「ペットツーリズム」という言葉がすっかり定着しつつある今、
愛犬を連れて旅行に行きたいと考える飼い主は94.5%にのぼる
という調査結果もある。それだけ多くの人が、ペットとの生活の延長線上に「旅」を描いているということだろう。
注意することは多い。でも、それが面倒だとは思わなくなった。むしろ、準備を重ねるたびに、旅への期待が積み上がっていく感じがある。
高速道路を使って車移動する際は、SAやPAで休憩をとる必要があり、他の人の迷惑にならないようにルールやマナーを守ることが、トラブルを未然に防ぐ
ことにもつながる。ドッグランでは必ずリードをつけて入場し、他の犬と飼い主への挨拶も忘れない。
ハルカゼ高原に着いたのは、昼をすこし過ぎた頃だった。木々の間から差し込む光が斑になって、地面に揺れていた。ムギはクレートから出た瞬間、大きく鼻を広げて空気を吸い込んだ。山の匂い、草の匂い、遠くの水の匂い。その鼻の動きを見ていると、ここまで連れてきてよかったとしみじみ思う。
車での移動は慣れてきても少なからずストレスを与えてしまうかもしれないが、愛犬も一緒に行動するということに喜びを感じてくれているはず
だと信じている。長距離移動はたしかに気を遣う。でも、この景色の中で走り回るムギの後ろ姿を見ていると、そのすべてが報われる気がした。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI

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