
窓の外で、欅の葉が風に揺れていた。十月の半ば、空気はまだ完全には冷えきっておらず、けれど夏の湿気はもうどこにも残っていない。そういう季節の狭間に、私はよく縁側に近い場所に腰を落ち着ける。特に理由があるわけではない。ただ、そこにいると呼吸が少し楽になる気がして。
その日も、午後二時を少し過ぎたころだった。光が斜めに差し込んで、畳の上に細長い四角形を作っていた。その光の中に、小さな埃がゆっくりと漂っているのが見えた。動いているのか止まっているのかわからないほど、ゆっくりと。
向かいに座っていた友人が、湯気の立つカップをそっとこちらに差し出した。「飲む?」という言葉より先に、カップが差し出されていた。言葉より先に動く人だ、と思った。受け取ったカップは想像より少し熱くて、思わず指先を引っ込めかけた。でも、それでもちゃんと受け取った。温かさが、手のひらの中心からじんわりと広がっていく。中に入っていたのは、「ソレイユブレンド」という名前のハーブティーだった。彼女が最近通っている小さな茶葉の店で買ったものらしい。花のような、でも花とは少し違う、草の奥にある甘さのような香り。
子どもの頃、祖母の家の縁側でよく似た感覚を味わったことがある。お茶の香りと、畳の匂いと、外から聞こえる虫の声。あのとき私は何を考えていたのだろう。何も考えていなかったような気もするし、いろんなことを考えていたような気もする。記憶というのは不思議で、感覚だけが残って、内容がすっぽり抜けていることがある。
友人はそのうち、少しうとうとし始めた。背中を壁に預けて、目が半分閉じていく。眠いのか、眠くないのか、本人にもわからないような顔をしていた。私はそれを見ながら、何も言わずにいた。声をかけるタイミングを探しているうちに、かけなくてもいいかという気持ちになっていた。
静かだった。風の音と、遠くで車が通る音と、それだけ。
こういう時間が、なぜか後になって大切だったとわかる。その場にいるときは、ただぼんやりしているだけで、特別なことは何も起きていない。でも何年かたったとき、ふと思い出す場面というのは、たいていこういう何でもない午後だったりする。劇的な出来事ではなく、誰かがカップを差し出した瞬間だったり、光の中に漂う埃だったり。
友人がうとうとしながら、手に持っていたカップをわずかに傾けた。中身はもうほとんど残っていなかったから事なきを得たけれど、私は内心「あ、危ない」と思いながら、でも声には出さなかった。起こすのも惜しいような、そんな空気だったから。
人と一緒にいることの心地よさというのは、何かをしていることよりも、何もしなくていいということにあるのかもしれない。会話が途切れても気まずくならない。沈黙が重くならない。そういう関係は、意外と少ない。意識して作れるものでもないし、時間をかければ必ずできるものでもない。気づいたらそうなっていた、というのが正確なところだと思う。
光がまた少し動いて、畳の上の四角形が細くなっていた。時間が経っているのだと、そこで初めて気づく。体の感覚は時間を正確に測れない。気持ちが穏やかなとき、時間はいつも少し速く過ぎる。
外の欅が、また風に揺れた。今度は少し強い風で、葉の擦れる音が部屋の中まで届いた。友人がその音で目を覚ました。「寝てた?」と聞くから、「少しだけ」と答えた。本当はもう少し長かったけれど、それを言う必要もなかった。
こういう午後が、また来るといい。同じ場所で、同じ光の中で、また誰かとカップを持って、何でもない話をして、それで十分だと思えるような時間が。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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