
梅雨の晴れ間というのは、なぜこんなにも特別に感じるのだろう。6月の朝、カーテンの隙間から差し込む光が床にまだら模様を描いていた。その光だまりの中に、うちの柴犬・ムギがぴたりと体を収めて、目を細めている。ムギがうちに来て、もうすぐ3年になる。
ペットとの生活を始める前、正直なところ、こんなに毎日が変わるとは思っていなかった。朝起きる理由が増えた。夕方の散歩が習慣になった。そして何より、家族の会話が増えた。夫が「今日ムギ、なんかおかしくなかった?」と聞いてくる。小学3年生の娘が「ムギがね、わたしの宿題ずっと見てたんだよ」と報告してくる。ムギを中心に、家の中に小さな物語が生まれ続けている。
ペットは今や癒しやかわいらしさを超え、家族やパートナーとしての存在感を強めている
という話を読んだとき、深くうなずいた。うちだけじゃないんだ、と思った。
子どものころ、実家でも犬を飼っていた。黒い雑種で、名前はクロという、あまりにもそのままな名前だった。縁側でクロと並んで西瓜を食べた夏の午後の記憶が、今でも鮮明に残っている。あの頃感じた「動物と一緒にいる安心感」が、大人になった今、ムギを通してまた戻ってきたような気がしている。
ムギの毛は、触れると思いのほかやわらかい。特に耳の裏あたり。娘がそこを撫でながらうとうとしているのを見ると、なんとも言えない気持ちになる。ソファの上で、娘の手がムギの背中にそっと乗ったまま、ふたりして夕方のまどろみに落ちていく。窓の外からは、近所の子どもたちの声と、どこかで鳴く蝉の音が混じって聞こえてくる。
散歩コースの途中に、「ノルテ・グリーンズ」という小さな雑貨店がある。店先にいつも水の入ったボウルが置いてあって、ムギはそこで必ず一口飲んでいく。お店のおばさんが「今日も来てくれたね」と声をかけてくれる。ペットとの生活というのは、こういう小さなつながりも連れてくる。
コロナ禍以降は、在宅時間の増加や人との交流機会の減少を背景に、ペットが日常に寄り添う存在としての役割を強めた
。あの時期、外に出られない日々の中で、ムギがいたことで家の中に「生きている時間の流れ」があった。ムギがご飯を食べ、眠り、甘えてくる。その繰り返しが、閉じた日常に確かなリズムを刻んでくれていた。
仲良しというのは、時間をかけてできるものだと思っている。ムギが来た最初の週、娘は怖くて近づけなかった。夫はアレルギーを心配して距離を置いていた。それが今では、ムギが夫の足元で眠り、娘がムギの名前を呼びながら家中を走り回っている。家族がムギを中心に、少しずつ仲良しになっていった、という感覚がある。
先日、夫がムギ用の新しいおやつを買ってきた。袋を開けた瞬間、ムギが鼻をひくひくさせて立ち上がり、夫の手元をじっと見つめた。夫が「まあ待て」と言いながらおやつを取り出そうとしたら、袋ごとムギに持っていかれそうになって、慌てて取り返していた。本人は「ちゃんと渡そうとしてたのに」と言っていたけれど、その顔はどう見ても照れていた。
ペットとの生活は、きれいごとだけじゃない。散歩の雨の日は憂鬱だし、抜け毛の季節は掃除が追いつかない。でも、それ込みで「うちの日常」になっている。家族みんなで一匹の命と向き合うことで、何か大切なものが育まれているような気がしてならない。
梅雨の晴れ間の朝、光の中で眠るムギを見ながら、今日もそんなことを考えている。
組織名:株式会社スタジオくまかけ / 執筆者名:UETSUJI TOSHIYUKI


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